2012年1月20日 (金)

箱根駅伝に感動

 正月の風物詩「箱根駅伝」、箱根からの戻りの復路を横浜戸塚の不動坂で見た。このところ何年か小田原から箱根の登りで東洋大学のランナーがトップになっていた。しかし、昨年往路トップだったにもかかわらず2日目に早稲田大学に抜かれ、わずかのタイム差で優勝をのがした。東洋大学は本当に悔しい思いをした。  それをバネにさらに練習に励んできたからか、今年の東洋大学は早かった。過去の箱根駅伝の最高タイムを10分近く上回っていた。それぞれのランナーが良い記録で走っていた。私が応援の中に行ったときにはもう東洋大学はすでに通り過ぎたあとだった。その後、次々に来る選手は目一杯のスピードで次々に通り過ぎていく。沿道のたくさんの応援の人々は旗を振って、声援を送って、熱気がすごい。テレビではいつも見ている光景だが実際に見ると走っている彼らの若い力が伝わってきて感動的だった。  私はおおよその通過時間を調べてから出かけた。戸塚駅から緑園都市行きのバスに乗ろうとしたが、すんでのところで乗り遅れた。次に来た舞岡行きのバスで行ったところ、乗り遅れた緑園都市行きのバスが不動坂の交差点のところで止まっていた。選手が通過するまで横浜方面に行く車は通行止めになっていたのだ。バスだから他の道を行くわけには行かない。選手が皆通過したところで応援の人たちが動き出し、列が崩れ、皆がそれぞれ帰路についた。そして、車の通行止めが解除となり、あっという間にもとの道となった。その後、私はそこから程近い妻の実家に向かった。

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2012年1月13日 (金)

昔訪れた与論島、かって日本の最南端だった島

 絵の仲間から沖縄でスケッチをしようと誘われ久しぶりに沖縄を訪れた。沖縄のことはまた書くとして、昔行った与論島のことを記しておきたい。  帰りの飛行機で那覇を昼に発った、飛行機はどんどん高度を上げ、美しい海岸線はだんだん遠ざかっていく。少しして眼窩に円形の島が見えてきた。位置からしてきっと与論島だ。はるか昔何日か滞在した島に見入ってしまった。  島は平らで畑が広がっている。私が訪れた後にできた滑走路がある。反対側には美しい色をした海岸が見える。サンゴ礁で出来た海岸は沖で波が砕ける。4月にはもう泳げる与論島。戦後は沖縄がアメリカの統治となり、与論島が日本の最南端だった。  かって、訪れた時、小さな渡し船が桟橋に着く頃には日も暮れかかっていた。民宿の人たちが大勢提灯で迎えてくれた。私は控えめに声をかけてくれた民宿の奥さんのところで何日かお世話になった。その民宿は通りの中心にあり、パチンコ屋をやっていた。小さなお店でご主人が始めたそうだが、始めは釘の調整のことも分からず苦労した話しをしていた。島の人たちと夜に酒を飲む機会があったが、島1番の美女を島の学校の先生が射止めたことが話題となっていた。  島をぐるりと回る道路は1時間も走ると元のところに戻ってくる。そんな小さな島だ。訪れたとき季節は春だったが初夏のようにあたたかく、同じように民宿に泊っている人たちと海辺でのんびりと過ごしたりした。 帰るとき桟橋に民宿奥さんや後から来た宿泊者たちが見送りに来てくれた。1人の女性がことさら私との別れを惜しんでくれた。私はそれほどは思っていなかったのだが私に好意を寄せてくれていたのだろうか、それとも旅先での旅愁がさせたことだろうか。  それ以降与論島には行ったことがないが家々や住んでいる人たちはもうずいぶん変わったことだろう。飛行機の中からほんの一瞬だったがかって訪れた島を高いところから見て昔のことをなつかしんだ。

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2012年1月 4日 (水)

天照皇大神社で新年の甘酒の奉仕

 私の一年の始まりは初詣の人たちへの甘酒の奉仕だった。加瀬山の上にある天照皇大神社の年始はたくさんの人が急な階段をのぼって初詣をする。甘酒奉仕の当番は氏子のなかから6年に1回、順番が回ってくる。  冬の夜、じっとしていると寒さが伝わってくる。オーバーズボンを履き、ホカロンをいくつも体につけていたがそれでも夜が更けると寒い。11時30分を過ぎると徐々に初詣の人が急な階段を上がってくる。12時に近くなるともう階段の下まで列が出来る。流れは1時30分を過ぎるまでとぎれることはなかった。人々が階段を上がったところで甘酒をふるまった。右脇には2箇所で松明を炊き、さらに登った神社から時々鈴の音が聞こえてくる。ああ新しい年が始まると言う感慨がわいた。今年は大きな災害がなく、平和で良い年であって欲しいと思う。  夢見ヶ崎動物公園がある加瀬山の天照皇大神社、江戸城を造った大田道灌が室町時代の中期1455年から57年ころ、この神社に泊まった。明け方に東北の方角の空に縁起の良い丹頂鶴が飛んでいく夢を見た。ことからその地に江戸城を築いたと言う言い伝えがある。夢見ヶ崎と言う名はそこから来ている。  それから時代を少し下って戦国時代の1500年頃には小田原の北条氏の祈祷所となっていた。当時は荘厳で優美な社殿が造営されていたようだがどんなだったろう。今は小さな社殿でそんな面影はない。  山の上から眺めると日吉や横浜方面の岡の連なりが見え、ビルがすきまなく建ち並ぶ。私が子供だった頃は一面田んぼが広がる田舎の景色だった。もっとはるか昔、6000年前ころの縄文時代には気候が温暖で海面の上昇があり、加瀬山は海に浮かぶ島だったのだ。一帯は東京湾の中の美しい入り江が広がる所だったことだろう。時代時代に想像も出来ないくらいの変遷があった。

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2012年1月 2日 (月)

「魚仁」横浜・本牧にある名物魚料理店

 本牧にある魚仁は1階が魚屋さん、2階は宴会や集まりのできる広間となっている。飲み物はついていないので好きなものを持ち込むことになる。タクシーの運転手もよく知っている名物魚屋さんだ。  ここで宴会をする一番の時期は本牧通りの桜が満開の時だ。二の谷のバス停近くの本牧通りにある店の2階の窓から桜を見ながらの宴会はすばらしい。この絶景とお酒持込のやり方、それになんといってもお魚のおいしい魚仁は良いところだ。  時間は何時までと言われない。ついつい長居してしまい、酔いつぶれる人が出たりだが、のんびり、ゆったり、おいしい料理と持ち込んだ酒での楽しいひと時を過ごすことができる。ただ、魚屋のほうはスーパーにおされ気味のようだし、2階の畳の間も少し古びてきた感がある。その辺のことは親しみを感じるので良いとしておこう。  暮れの集まりでは鮟鱇(あんこう)鍋をしようとのことだったができなかった。震災の影響で鮟鱇の水揚げが少ないようだ。震災の復興が進み、魚の水揚げも増え、早く鮟鱇鍋ができると良い。鮟鱇は冬の味覚なので次の会のときはもう桜の季節となっているだろうか。  

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2011年12月20日 (火)

武蔵屋・桜木町の名物飲み屋に行く

 横浜で絵を描き始めた頃からの仲間のNさんから、名物店主のおやじがいる武蔵屋の話は何度か聞いていた。店は普通の民家の玄関のようで看板はない。お酒のお通しは決まっていて、日本酒3杯までだ。健康のためそれ以上出さないそうだ。あるとき4杯目を客が注文したが、おやじはだしてくれず、怒って帰って行ったとか。  桜木町で版画教室に通っていたときはいつも決まって野毛の叶屋(かのう屋)だった。大きい店でお鮨まであるし安い。女優の樹木希林さんの生家でもある。教室が終わって飲みに行く時間には武蔵屋はそろそろしまってしまう時間だった。そういうこともあって一度行きたいと思っていたが、果たすことはかなわなかった。  名物店主が死んで店は閉店となった。しかし、それからしばらくして、懐かしむ多くの客の後押しを受けて2人の娘さんが再開した。この話は神奈川新聞に載った。いつだったか一度行ってみたいと思い、1人でNさんが話していた場所あたりを探してみた。しかし、分からなかった。  その念願がかなったのはNさんの話を聞いていた仲間が武蔵屋に行こうということになり、やっと実現した。話の通り入口は普通の民家の玄関で、看板や案内は一切ない、。これではわからないはずだ。娘だった2人はもう良いおばあちゃんだ。行ったときは1人だったが何十年ぶりかに行ったNさんのことを覚えていて、懐かしがっていた。  入ったところに椅子席があり、奥に畳の部屋がある。もうお客で一杯だったが、畳の席を空けてくれ、長年の思いであった武蔵屋で三杯飲むことが出来た。昔と同じようにコップに熱燗の酒とお通しが出てくるが、お酒が3杯までもお通しの内容も昔のままだ。働いている何人かの若い人は肉親ではないようなので武蔵屋もいつまで続くかわからない。昔から名前は知っていた名物飲み屋、こんなところだったのかーー実際に行けて良かった。、        

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2011年12月10日 (土)

個展で47年ぶりに再会した中学のクラスメート

 昨年の秋の中学の同期会、おりからの台風が会の時間にちょうどやってきた。台風の直撃だ。皆がこれるだろうか、心配したがほとんどの人が来れて盛会な会となった。  中学3年のクラスには絵のうまい2人がいた。中学を卒業すると2人と別の学校に進んだ私はその後2人には会うことがなかった。しかし、私が大学の進路を考えるとき、将来の仕事を考えるとき、クラスに2人の絵のうまいものがいるのだから私が志してもだめだろうと私の思考に係わっていた。  それでも私が大学を出て絵をやろうと思ったのは絵が自分にあっているだろうことと、うまくなくても味があって自分の思いが表せたらそれでよいのではないかと思うようになったからだ。  中学のクラス会や同期会が時々あっても2人とも来た事がなかった。1人は何処に行ったか誰も知らなかったのでもう会うことがないと思っていた。ところがその2人が今でも時々グループ展を開いていることがわかった。昨年、同期会があるとき1人に電話して、2人で来てくれるよう頼み、2人と47年ぶりの再会をはたした。  1人は美大を出て絵の教師となっていた。もう一人も絵の道に進もうとしたが夢を果たすことが出来なかったようだ。今は美容師をしている。同期会で我々3人が並ぶと「3人の絵描きに見えるよ」と言ってくれた仲間がいた。私も絵のうまい2人の仲間にはいれたような気がした。  今回の私の個展に2人はそれぞれ顔を出してくれた。絵を描き始めたときいつも意識の中にあった2人に再会できてうれしかった。

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2011年12月 5日 (月)

ワイキキビーチの夕焼けとマウイ島の隠れたビーチ

 ハワイは常夏の島と言はれていてそのとおり、11月でも浜辺は夏のような光景だった。始めて行ったハワイ、ホノルルのあるオワフ島には中央に1000メートルを超える山々があり、東側と西側では雨の降り具合が違うのを知った。  日本では低気圧が通る位置により雨の降り方が変わるので砂漠のようになることはない。ハワイではワイキキビーチのある西側は雨が少なく公園や庭や植え込みに朝にはスプリンクラー草木に水を散布している。ワイキキビーチの緑は人が管理している美しい公園なのだ。  ワイキキビーチの夕暮れ、浜辺での休息の時は夜のとばりに包まれていく。 写真は今回の旅行のベストショットの一つだ。 しかし、もう一つのベストショットになるだろう写真は撮れなかった。マウイ島の小さな美しいビーチの光景。ナイスボデーの女性が水着をつけないで波に戯れていた。  マウイ島での結婚式の前日の夕方、両家の顔合わせの会が広々としたビーチで食べ物を持ち寄って行われた。和気藹々とした楽しいパーテイだった。私は浜を少し散策して小高い丘に登った。するとその先に弧を描いた小さな美しいビーチがあった。何人かが裸で泳いでいた。少しすると1人の髪の長い若い女性が衣服を脱いで波に向かって走り出した。そしてしばし波に戯れていた。自然で美しい光景だった。  

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2011年12月 2日 (金)

個展開催5日目、カレッタ汐留のクリスマスイルミネーションをみる

 銀座での初めての個展、今日5日目は天気が悪く真冬のように寒さが身にこたえる一日だった。12月になっていよいよ本格的な冬がやってきた。今日も寒い中絵の仲間や昔からの知人たちがやってきてくださった。  終わって新橋から近いカレッタ汐留に行ってみた。今年ももうすぐクリスマスだ。6日より高層ビルの谷間の空間にクリスマスのイルミネーションが始まる。今日は期間前の試験点灯だった。今年も美しい光のオブジェが見られる。本格点灯前の美しい光をご覧ください。

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2011年11月22日 (火)

ハワイ州立美術館

 個展の開催時期が迫っているが姪の結婚式にハワイに出かけた。式はマウイ島で行われた。私は帰りにオアフ島で何日か滞在することにした。絵がまだ完成していなくて気になるところだが一旦作品から離れるのも良いのではと思いつつである。  ハワイに行ってしまうとスケッチぐらいは出来るが、個展の作品は手を入れることは出来ない。のんびりハワイの休日を楽しむことにした。2日目、ハワイ州立美術館に行った。美術館は役所やオフィスがある地域にある。庭は芝の緑が広々美しい。作品は2階のフロアーに所狭しと展示されていた。入場は無料だった。  作者の名前を見るとドイさん、スズキさん、アサクラさんと日系の方の名前を多く見かけた。ハワイで活躍された人なのだろうがどんな人かは分からない。全体的に水準の高い展示で見る価値はあると思う。行けて良かった。  家に帰って作品に向き合うとデッサンが狂っていたり、修正したほうが良いところが分かったり、作品から少しはなれたことはそれなりに良かった。あと1週間できるだけ作品の質を高めなければ。  

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2011年11月 6日 (日)

銀座での個展開催時期が迫る

 昨年の暮れの銀座でのグループ展の際、Mさんが月光荘での1年後の個展が出来なくなったとのことで変わりに私がそこですることになった。あれからまもなく1年だ。  会期は11月28日(月)から12月4日(日)まで、時間は11時から6時30分まで、最終日4時までです。  場所は銀座月光荘画室2(銀座8-7-18)、是非お出かけください。  今回は油絵の小品や水彩の風景画を中心に花や今模索している独自な世界を描いた作品を見ていただきたいと思っている。おおむね大丈夫と思うが12日から1週間姪の結婚式でハワイに行くことなっているので、そのつもりで早めに作品が出来上がるように日々格闘している。来ていただいた皆さんをうらぎることがないような作品を展示したい。

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まんが「卜伝くん」の主人公は今いずこ

 今、NHKで塚原卜伝をやっている。卜伝は戦国時代の剣豪、兵法家で実在した人物だ。それで思い出したのだが、昔「卜伝くん」と言うまんがであったのをご存知だろうか。調べてみると「冒険王」で連載されていたようだ。そしてテレビが普及し始めた1960年代にドラマとして放映された。  卜伝くんの主人公をしていたのが木浪茂くん。どうして名前を知っているかと言うと小学校のクラスメイトだったからだ。目がギョロッと大きかった。テレビドラマの主人公がクラスメイトだと近所の人に自慢げに教えてあげたりした。でも、あまり遊んだ記憶がないのは撮影があると授業の途中からでも席を立って出て行ってしまうことが多かったからかも知れない。  一つ良く覚えているのは、クラス担任の佐藤光二先生がある日、時代劇風の放送ドラマを書いてきて、それをクラスの全員が参加して録音した。そしてそれは給食の時間に流された。木浪くんの台詞はあまりながったが、彼がしゃべったところだけは群を抜いてうまく、さすがだった。  それから、しばらくして木浪くんは引っ越していった。今はテレビで見かけることはないし、同期の仲間たちと会っても彼のことを話題にする事もない。何処で何をしているのかは分からない。しかし、調べたり、どなたかに教えていただいて今会ってみたところで何を話せばよいのか、かも知れないが。   佐藤先生のことになるが、先生は生徒たちに人気があった。かっこ良く、優しく、話がうまかった。卒業後に先生が好きだった友人に誘われて先生のお宅や白樺湖の近くにある先生の別荘にも伺ったりした。しかし、訃報は突然やってきた。先生は50歳になる目前に病に倒れ、たくさんの教え子や仲間たちに送られて旅立っていった。合掌。

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2011年10月16日 (日)

三俣、風呂桶が台風の増水で流され行方不明

 9月、台風15号は関東を縦断し、大雨や強風により大きな被害をもたらした。三俣のレイクサイドロッジの横を流れる清流に作ったお風呂は増水により浴槽が川に流されどこまで流れていったか分からない。  台風の大雨で上流の田代湖が満水となり、あふれた水で川が増水し、普段より2~3メートル高くなった。ダムが出来てからはこんなことはなかった。一時は川幅が広い濁流のようで普段美しい清流からは川底を流れる大きな石が転がる音が聞こえ、恐ろしい状態だったようだ。近くにかかる橋も半分が流された。  風呂の周りの木製のものは流されたが、ほとんどが近くの木々に引っかかった。しかし、直径が1メーター位のホーローの浴槽はその時水が入っていなくて、船のように流れていってしまった。清津峡谷を下り、日本海のほうまで流れていってしまったのか、それとも近くで沈んでいるか分からない。木々の葉が落ちた頃にロッジの常連の人たちは下流を捜索するとのことだ。  流される前、渓谷の流れを見ながら入る風呂は良かった。(写真) 下で薪を燃やし、熱すぎたらホースの水を入れ木のスノコを沈めながらはいる。煙くても体を沈めれば聞こえるのは渓流の音だけ、周りの潅木が目隠しとなり自分だけの世界だった。よかったなー。またロッジで渓流のお風呂を楽しみたいものだ。

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2011年10月11日 (火)

大震災から半年、二科展が終了

今年も絵画、彫刻、写真、デザイン何千人もの人たちがこの展覧会のため準備した展覧会が終わった。私の属している絵画もたくさんの力作が並び、見ごたえがあった。準備から開催に多大の力を注がれた運営の方々に敬意を表したい。それから見ていただいた多くの方に感謝いたしたい。  東日本大震災から半年、この間に作家が感じたことが多くの作品に反映していたように思う、作品に重みが感じられたような気がした。  会期中に会場で開かれたコンサートは、チェルノブイリ原発の事故で被災したウクライナの歌姫ナターシャ・グジーだった。澄んだ高音の歌声が何か悲しみをたたえているようだった。彼女の住んでいた所はチェルノブイリ原発から3キロぐらいのところだが、20年経った今も帰れないそうだ。日本の原発事故は今後どうなってしまうのだろう。  二科会では大震災で被災した地域の子供たちと現地で絵を描くイベントをして子供たちを元気づけた。その交流の記録と子供たちが描いた作品が二科展の会場に貼られていた。被災した人たちに美術団体として出来ることをこれからも続けていくそうだ。

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2011年9月26日 (月)

青春の1ページ、鷹美術研究所をめぐって

 先日、Tさんが目黒にある餃子の店はおいしくて日本の10本の指に入る、教えた人は必ずレピータとなっていると自身ありげに言うので、ネットの地図で確認したが、その少し先のところに鷹美術研究所がある。しかし、地図で確認するとそこにない。どうしたのだろうとネットをあたると10年前に経済的な理由で閉館となったのだった。昔を懐かしむブログがあった。  鷹美は白金の広大な自然園と国道をはさんだところ、細い路地を下って少し行った突き当りのところにあった。せまい敷地に2階建ての木造の校舎が目一杯建っていた。それでも美術の学校らしく入口は瀟洒な作りだった。サロン風の部屋は絵画を志す人たちのたまり場のようにもなっていた。2階には土日にクロキー会場となる広い吹き抜けの部屋があり、誰でも参加できるのでいつもたくさんの人が参加していた。  私は大学を卒業して仕事が築地だったので帰りに川崎方面に向かう途中行ってみようとデッサンのクラスにはいった。たくさん石膏が並んでいる静かな部屋で何人かと夜に黙々と石膏をデッサンしていると時々若い先生が来て指導してくださった。  その後、絵描きになりたくて仕事を辞めてヨーロッパに行こうと思っているとき、鷹美にはパリ往復ツアーの案内が貼ってあった。私は帰りの便だけの利用を鷹美にお願いして、行きはモスクワ経由パリ行きの片道切符を買って横浜港から旅だつことにした。鷹美主宰の山口鷹先生からパリの三越の人に渡して欲しいと品物を預かっての旅立ちだったが、後でいろいろのハップニングがあった。  当時のパリ三越は普通の小売の店ぐらいの広さだった。パリ三越のYさんには時々伺ってお世話になった。パリ市内にある彼の自宅に伺ったとき、彼はなんと私と同じ町内の出身であることを知り、二人でびっくりした。日本に帰って彼から預かったものを渡すためにYさんの家に伺った。今、その家の前を時々車で通る時に彼はどおしているだろうかと思う。  結局、鷹美で企画したツアーは参加者が集まらず中止となった。私はしばらくパリの安ホテルに滞在していたので、パリで日本行き安い航空券を求めた。今はもうないパンアメリカン航空の南回り便だ。イスタンブール、ベイルート、テヘラン、デリー、バンコクと2,3時間ぐらい止まるごとに乗客が入れ替わる。最後の香港を立つときは12月31日の夕方だった。ようやく日本に近づいた。良いお年...

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2011年8月28日 (日)

作家「北杜夫」の友人、ドイツ文学者「小塩節」先生のこと

 私のブログの記事の書き込みが100回となった。毎月3~4回書いているが、いつも見てくださる人がいたり、「読んだよ」と言ってくださる方がいて続けられたのだと思う。今回はブログを始めるとき、こんな文章が書けたらいいなと思いながら書き始めた。その方のことを記しておきたい。  それは、かっての職場のトップ、フェリス女学院に学院長として就任された小塩節先生、ゲーテの研究でドイツから勲章を受け、書かれたエッセイ「木々を渡る風」が日本エッセイスト・クラブ賞を受賞、NHKテレビでドイツ語講座の講師を20年近くされていた。ご自宅では「ひこばえ幼稚園園長」をされ、毎日園児を迎えている。輝かしい経歴を書けばきりがない。おまけにシェークスピア研究者の素敵な奥さんがいる。だが、私にとって、始めは若い頃の愛読書、ドクトルマンボウシリーズの作家「北杜夫」氏のお友だちとしてだった。  だから、先生が赴任して来られるときはとても楽しみで、お近づきになれることが喜びであった。小塩先生のもとで事務局として働く日々、先生は博識で判断も早く、優しくて細かい配慮もお持ちでとてもうれしかった。私が絵を描いていることを知ると「画伯」と半分おどけて言う。先生の運営のやりかたに多くの教職員が尊敬の念を持っていた。  しかし、一つだけ困ったことがあった。それは先生が心臓に持病があり、時々具合が悪くなることだった。責任感の強い先生のこと、理事会があるとき具合が悪いのにタクシーでやってきて会議の議長を務めたりする。到着したときは本当に具合が悪そうなのに会議中はそんなそぶりを少しも見せない。仕事の途中で倒れてしまったらどうしよう。絶対に死なないで欲しいと言う思いだった。 さて、小塩先生を見習って文章を書いてみるとなかなか思うように書けない。小塩先生の文章は先生の豊富な経験、交友の多さ、観察力の鋭さ、温かい人柄などから生まれるものだ。文章は人そのものだと言うことを改めて感じさせられる。なので私はこれからも無理をせず私なりにやっていき、何か書きたいなーと感じた時にブログの書き込むことにしたい。これからも皆さんに読んで欲しいなーと思う。  なお、小塩先生は現在フェリス女学院の理事長をされている。いつまでもお元気でいて欲しい。 。

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2011年8月21日 (日)

二科展作品制作、蚊に悩まされながら描く日々

 今月31日から新国立美術館で開催される二科展、今年の作品制作は外で行った。ホームセンターに行ったら屋根型のテントを安く売っていたのでその下で描くことにした。しかし、屋根の高さが思ったほど高くなく、四方に箱を置きその上にテントの足を乗せ、屋根を高くすることにした。テントの屋根の部分には塗料が塗ってあり、テントの下はあまり明るくない、しかたなく日陰で明るいところに絵を立てかけて描いた。  一番困ったのは蚊である、我が家は岡の下なので草の影などに蚊がたくさんいて何もしないとほんの5分もすれば蚊に何箇所か刺されることになる。長袖のシャツを着て、手や顔に虫除けスプレーをして、蚊取り線香のホルダーをバンドに掛け、麦藁帽子に付ける虫除けネットも買ってきて時に利用した。毛に覆われた犬猫や蚊に刺されない体質の人がうらやましい。  遠くから絵を見ると構図の間違いや必要な線がわかる。しかし、昼間日陰で描いていても太陽の位置で絵の見え方が変わり、朝に良いと思ったのに夕方には平板に見えたりで、なかなか絵がまとまらず苦労することになった。それでも部屋で描くより良いのではないかと思う。  いつも私と2階の部屋にいるミケ猫は私が2階にいないので今年は1階に降りてきて木箱の下の空間に寝て多くの時間を過ごすようになった。(写真)  また、大きなレッドリバー犬も私のそばに来たがる。毎日暑い日が続いたので犬もテントの中の扇風機の風にあたり横たわっている。1人黙々絵を描いていると犬や猫がいても 音がない。それで家にあったラジカセをつけ音楽を聴きながら描くことにした。だんだんと慣れてきて制作も進んだ。それにしても8月は毎日暑かった。ちょうど節電を推奨していることもあり、暑い中多くの時間は自然の風の中で過ごした。制作は2階の部屋で描いているよりはかどったのではないかと思う。はたして良い作品となっているだろうか?    

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水陸両用観光バス、シアトルを走る

 今回のシアトル旅行でよく見かけたのは船の形をした観光バス、流行っているのだろう。乗ってみたいと思ったのだが時間がなくて、出来なかった。運転手が自ら陽気に案内している。バスには窓がなく、乗っている人たちもテンションが上がって、バスの中はにぎやかそうに見えた。(写真) このバス、水上飛行機が発着するレイクユニオンを遊覧する、約90分のシアトル観光だ。シアトルに行ったらマリナーズの観戦などとあわせて乗ってみるのも良いのでは、、。

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2011年8月 7日 (日)

シアトルで創業、スターバックス・コーヒー1号店

 シアトルのダウンタウンにあるマーケット、買い物客や観光客でにぎわっている。スターバックコーヒー店は市場と道を挟んだところにある。(写真)ここがスタバ発生の地だ。入ってみると比較的せまく内部に椅子はない。私は飲み物を買って、近くでオムレッツをのせたようなピロシキを買い、近くの公園で朝ご飯とした。高台のテラスの小さな公園でシアトルの港が臨めた。対岸には家々や高い山が遠くに見える。海や湖に囲まれたシアトルは美しい街だ。 以下に参考まで、スターバックス・コーヒーの歴史を転載しておきます。  バークレイのコーヒー販売店「ピーツ・コーヒー」で深煎りのアラビカ種のコーヒーに魅せられた英語教師のジェリー・ボルドウィンと作家のゴードン・ボーガーが、1970年にシアトルでコーヒー店を開くことを決意。  ジェリー・ボルドウィンが、「ピーツ・コーヒー」のアルフレッド・ピートから豆の選別・焙煎・抽出などのコーヒービジネスを学び、ゴードン・ボーガーと歴史教師のゼブ・シガールの3人で、1971年4月にアメリカ・ワシントン州のシアトルでコーヒー豆の焙煎・販売会社としてスターバックスを創業しました。  1号店は、シアトルのパイク・プレイス・マーケットにあり、創業当時の面影のままで現在も営業しています。  現在、シアトル市内だけで200店舗以上、北米に3400店舗以上、世界では4000店舗以上あります。  

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2011年8月 5日 (金)

ロペス島で宿泊の築120年の家、別荘にしたい。

 滞在中にロペス島で借りて宿泊した家は2階建てで、2階には寝室が3部屋、1階には広い応接、食堂などが無駄なく配置されている。築120年、海を臨む良い家だった。庭も広々としていて海を臨む絶好のテラスだ。(写真上下)  この家、どうやら売りに出ているらしい。広々とした庭付きで日本円で4千万円くらいだ。日本で都会に家を持つより安い、買って別荘にしたいな、、。でも、買ってもあまり来る機会がないか、、、残念。

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2011年8月 4日 (木)

ロペス島での結婚式

 ロペス島に住む新郎の叔母の家の前の庭にテントを張っての手作り結婚式、式の参列者は多くの人が庭にそれぞれテントを張って泊り、前の日から盛り上がっていたようだ。  式は午後4時から始まったが30分ほどで終わり、その後は手作りの料理やお酒などの飲み物を取りながら歓談をしたり、義母が日本舞踊を披露したり、ウエスタンバンドの演奏があったりした。結婚式なのに普段のような服装の人も多い。和気藹々としてとても楽しいひと時だった。  

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2011年7月27日 (水)

シアトルにて、水上飛行機初搭乗紀

 ロペス島での結婚式の翌日、ロペス島にシアトル行きの飛行機が到着した。(写真) 飛行機は桟橋に到着し、操縦士が降りて自らロープを杭にとめた。そして、私たちはフロートに足をかけ、梯子から機内に入った。そのあと操縦士は飛行機を桟橋から放し、自らが乗り込みすぐに発進だ。10人乗りの飛行機は水の上を滑ってあっという間に浮き上がった。みるみるうちにロペス島は遠ざかっていく。遠く、バンクーバーの方向にひときは高い、白い大きな山が見えた。  シアトルまでは約30分、付近には島が多いので海の上を島影を眺めながらの飛行だ。高度がそんなに高くないので、家々や公園、車など良く見える。海岸に沿って鉄道があって列車が見えた。と、まもなくシアトル、家々が眼窩に見える。飛行機はどんどん高度を下げる。時々ガクッとゆれる。着水する湖は小さく船が一杯だ。緊張の一瞬、シアトルのダウンタウンに近いレイクユニオンに無事着水した。  ロペス島はカナダ国境に近い小さな島、フェリーが日に何便かある。島は美しい入り江に囲まれ静かで別荘地帯のような感じだ。バスやタクシーなどはない。道を歩いていると車の運転手はほとんど手で挨拶を送ってくる。見ず知らずの私にも、きっと島の人たちは仲間のようなものなのだろう。島はなだらかな岡が続き、別荘のような家々には人々の暮らしがある。美しい花々が咲き乱れる庭には時々野生の鹿がやって来る。良いところだ。

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2011年7月 5日 (火)

三俣での野点(のだて)

 新緑の三俣、梅雨の季節、雨が降りそうではあったが湿気が多い野外はさわやかだった。上越新幹線、越後湯沢駅から苗場スキー場に「行く途中にある三俣の村はスキーシーズンも終わり、静まり返り新緑の緑にうずもれてしまいそうだった。   スケッチ会では石打スキー場の近くの田園の広がるあたりでそれぞれの好きなところを見つけスケッチをした。終わってからロッジに戻り、前に広がる川原の広場で野点をおこなった。ほとんどの人は作法はあまり良くわからない、教えてもらいながら野点を楽しんだ。  3年前亡くなったロッジのオーナーのゴリさんがいたらどんなだっただろうか?茶席の作法など似合いそうもないゴリさんはロッジの中で昼からビールだったかもしれない、、。

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2011年7月 3日 (日)

飯山線で北竜湖へ、ここにも残る地震の爪跡

 飯山線沿線の北竜湖は野沢温泉の近くにある山間の小さな湖だ。春には湖畔の菜の花が満開で、湖に映る新緑の若葉と青く輝く湖面がみごとな美しさだ。  北竜湖には小さなスキー場がある。かって、高校の仲間たちと村の民宿に泊り、北竜湖スキー場や野沢温泉スキー場を滑った。当時の民宿の窓は障子紙で開けると雪野原だった。ずいぶん粗末な民宿だったが、大勢で真ん中の炬燵を囲んでにぎやかにすごした。高校を卒業して少ししての頃だから40年以上前のことだ。  思えばその時は始めてのスキーだった。車3台で夜中に川崎を出発した。高速道路なぞない時代なので、国道をひた走り、明け方に目的地に近くなって私が運転をした。田舎の曲がりくねった道を快調に走っていたが、カーブでブレーキを掛けたら車が一瞬に横に滑って止らない。止まったら今度は谷側に向けてゆっくり滑っていく。ブレーキが効かない。そのままガードレールにぶつかって止まった。外に出たら道がつるつるに凍っていた。雪国の冬の道の怖さを始めて知った。ガードレールがあったので谷に落ちずに済んだ。なかったら何メートルか下に転落だったのではないか、、、。友人の車に付いていたフォグランプを壊してしまった。、、、ほろ苦い想い出だ。  長野から越後川口に行く飯山線は信濃川に沿って走る列車だ。一日に数えるほどしかない。長野あたりではりんご畑や家々の間を走るが山が迫ってくるところは信濃川に沿って走る。沿線の田舎の景色を見ながら乗る列車は実に楽しい。しかし、栄村あたりで今年強い地震があった。列車からも壊れた家が見えた。東日本大震災のニュースばかりが取上げられているようにみえるが、高齢者が多い栄村の復興は大変のようだ。  北竜湖には今年も行ってみたが、もう菜の花は満開を過ぎていた。よく晴れていたので湖面に映る青い空と新緑の木々、水に映る木々の影のコントラストが美しかった。かって夏に登った妙高山にはまだ雪が多かった。写真は北竜湖でのスケッチをもとに描いたものです。

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2011年6月24日 (金)

7月に姪の結婚式でシアトルへ

 7月に姪の結婚式でシアトルに行くことになった。姪はアメリカ人の母とのハーフで顔はほとんどアメリカ人、彼もアメリカ人のようなので式もアメリカ式か? 式場はカナダのバンクーバーに近いロペス島だということで、私は、シアトルからは小型の飛行機で往復することにした。  私のパスポートは更新の時期にあたるが、前のパスポートの発行日は10年前の同時多発テロのあった日の2001年9月11日であった。その頃は世紀がかわり、新しい未来に希望があった時で、戦争の世紀と言われた20世紀のようにならないよう、良い時代にしようと言う意欲があった頃ではないかと思う。それが大規模なテロによって私たちは今の世界の体制に恨みを持ったり、虐げられたことによる復讐心をもつ人たちの行動と戦わなければならない時代となった。憎しみは何処にも潜んでいる、難しい時代となったように思う。   それに加えて3月11日の東日本大震災、それ以後、私たちの判断基準も変わったように思う。放射能汚染がまた新たな不安材料となった。軽く楽しいことだけを謳歌することが出来なくなった。  私たちは、社会や環境、景観などを少しでも良く行こうというくマインドをもって人とつながりながら生きていくことが大切だと思う。ひとまず、結婚式に行く傍ら美しい景色をめで、新たな出会いをしてこようと思う。帰ったらロペス島での結婚式と、小型水上飛行機に乗った感想などを報告したいと思います。

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2011年5月28日 (土)

写楽は誰なのか、、真実が暴かれる

写楽は誰なのか、私は斎藤十郎兵衛ではないかと名前からそう思っていたが、ギリシャで写楽の肉筆画が見つかったことにより、北斎や歌麿たちの描き方と比較され、写楽説の人すべてが写楽ではないことが結論付けられた。そして残ったのが阿波の能役者である斎藤十郎兵衛ではないかとの説である。 東洲斎の名前の由来にについて、2008年の私のブログで以下のように書いたことがある。・・・・斎藤十郎兵衛は他人から呼ばれるとき、斎藤十(サイ トウ ジュウ)と呼ばれることが多かったのではないか。 時に斎が取れて藤十(トウ ジュウ)と呼ばれていたかもしれない。 何度も何度もサイトウジュウと言っていると区切りがなくなり藤十斎=東洲斎となる。 東洲斎の名前は本名を入れ替えただけと言うことだ。・・・・当時このことは知る限りでは何処にも紹介されていなかった。写楽が斎藤十郎兵衛だと言うことを私なりに確信し、初めて自分が発見したのだと少し興奮したが、研究者ではない私にはこのことを論証する手段もなかった。 先日のNHKの番組でも名前のことが触れられていた。武士の身分であった斎藤十郎兵衛は武士としとしてのこと以外のことをするのを許されていなかったので、せめて本名を逆さにすることで名前を残すことをしていたのではないかと研究者が言っていた。 江戸時代の浮世絵類考に写楽は「阿波の能役者である斎藤十郎兵衛」と書かれている。事実がわかってしまうとあまり面白くはないがやはりそうだったのだ。このことが確定されていなかったので皆が謎解きに熱くなったのだ。 写楽(斎藤十郎兵衛)の有名な大首絵はやはりすばらしい、江戸時代のほの暗い歌舞伎の舞台に浮かび上がる役者の顔が印象的に捉えられている。しかし、彼が大首絵を描き、世に出たのが30代半、大首絵は良いが、その後浮世絵となった全身を描いた絵は見てもまだ良くこなれていず、売り物としては受けなかったのではないかという気がする。

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2011年5月23日 (月)

ダーガー「非現実の王国で」誰にも知られることなく描いた挿絵

                                                                                          ダーガーの展覧会『ヘンリー・ダーガー展 〜アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く「非現実の王国で」』が、ラフォーレミュージアム原宿にて4月に開催された。      ペニスを付けた少女が岡を走っている絵と言えば見たことがあると言う人がいるだろう。色彩感覚が良く、他に類を見ない絵の本物が見られるということで原宿に出かけた。ダーガーの絵は思ったより大きかった。高さは40から50センチあるだろう、横は紙を何枚も繋げている。アメリカの民家や風景などを印刷物から切り取り貼りつけて絵の一部となっている。幼い頃に母と死別し、他に預けられた妹は行方知れずで、2人への想いや他人とうまくコミュニケーションが取れない繊細な感情から一人だけの世界に身を置いて作った作品。私は彼がつくった空想の豊かな世界にしばし身を置いて去りがたかった。  19歳から死の数年前まで執筆、作画したとされる彼の小説『非現実の王国で』は、彼が病で部屋を去った後、部屋の片付けに入ったアパートの大家によって発見された。 そこには子供を奴隷として虐待する暴虐非道な男たちを相手に、壮絶な戦いを繰り広げる7人の美少女姉妹の物語が、計15,000ページ以上にわたり綴られていた。 親との死別や施設での生活を経験し、生涯を孤独に生きたダーガーは19歳の頃から死を迎える数年前までの間、誰にも知られることなく膨大な数の挿絵と共にこの作品を紡いでいた。  ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, )の略歴   1892年4月12日シカゴで生まれ、4歳のとき妹の産後に母が死に妹は里子にだされる。         足の不自由な父に育てられる。 読書が好きで、小学校1年から3年に飛び...

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2011年5月 7日 (土)

竹の子の季節、同じ川崎で竹やぶに1億円が捨ててあった事がー

 今年もそろそろ竹の子のシーズンも終わりだ。夢見が崎の岡の斜面には何十年か前に植えた竹が広がり、春には竹の子が採れる。夢見が崎の岡の下に住む私もおいしい竹の子を食べる機会が多かった。  竹の子と言えば以前同じ川崎の竹林で1億円が入ったバッグが見つかり大騒ぎとなった。拾ったのは同じ町内で焼き鳥屋をやっている人だったので地域でも話題となった。お金は置いた人が現れたので、拾った店主は1割の1千万円をもらった、どうやら税金を何割か引かれたようだが。  焼き鳥屋の店主はマスコミに名前は出なかったものの電話などでおどされたりしたようで、今ではもうやめてしまったそうな、、。今でもそこに同じ名前の店はあるが、やっているのは他人だそうな。ー地域の情報によるとー  「その人は大貫さんと言う名前だった。新聞に死んだと出ていたね。」と竹の子を採りに来た友人たちが言う。  そうなのかと思ったが、いやいや、大貫さんは銀座で1億円を拾った人だ。大貫さんの時は持ち主が現れなかったのでお金は大貫さんのものとなった。大貫さんはテレビに出たりして有名になったので混同したのだろう。パソコンで調べてみると受け取ったお金の一部でマンションを購入したりした大貫さんは62歳のとき心筋梗塞ですでに亡くなっている。  あれから何十年かたち、焼き鳥屋の店主は今どうしているだろう。今度友人に会ったら何処まで混同しているのか聞いてみよう。

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2011年5月 6日 (金)

余震により100号の絵が落ちた?神奈川二科展

 神奈川二科展が終了した。今、後援をいただいた神奈川県や横浜市、神奈川新聞社に対して、実施後の報告書を作成している。  それにしても横浜市民ギャラリーは東日本大震災により建物周囲の道が液状化でいびつになり、建物の点検などで予定されていた展覧会が2週間に渡って中止となった。4月の中旬の神奈川二科展が予定通り実施できるか危ぶまれたが予定通り実施にこぎつけた。  飾り付けているときも大きな余震があり、不安になった。4日目に展示していた絵が2枚落下した。夜のうちに落ちたのでその時を見ていた人はいない。翌日に責任者が来るようにとの連絡が私にあった。ギャラリー事務室では普段の時と違うのであわてて最寄の業者に連絡をし、すべての絵が再び落ちないか確認したそうである。落ちた絵は、絵の後ろに打ってある釘が以前に打った釘だった、絵の重さで釘が上向きにまわってしまった。そして鎖がはずれ、横に架かっている絵にあたり、2枚一緒に落ちた。私には偶然の出来事で余震とはあまり関係ないような気がするが、やはり地震のゆれで釘が曲がったのかも知れない。ギャラリー事務室には謝りにいった。  今回は地震の後だし、多くの方が見に来てくださるか懸念していたが、普段より多くのかたに来ていただいた。100号の絵を中心に150点の作品がならび、頑張っているのだな^と言うことが伝わってくるような熱気が感じられる絵も多く、良い展覧会となった。無事に終わって良かった。

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2011年4月24日 (日)

「なんでも鑑定団」に鶴岡先生の絵が登場

 二科会の元理事長の鶴岡義雄先生の絵が鑑定団に登場した。何年か前に亡くなった鶴岡先生は二科会のリーダーとして、また我々二科会神奈川支部の顧問として長年ご指導いただいた。女性美を描き、舞妓や野球場をモチーフにした大きな絵などすばらしい作品をたくさん残した。歌やダンスが好きで先生がご健在の頃はいつも楽しいパーテイだった。  絵の元の所有者がどのようにして手に入れ、どうして手放したか分からない。購入した人は、手放したものをリサイクルで扱っているところで、破格な値段、2,500円で手に入れたとの事、大理石作りの立派な額が付いていて、作品の名前が鶴岡となっているので年鑑に載っている人の絵ではないかと鑑定団に登場した。  でてきた絵を見るとモンマルトルを描いた風景画で、ユトリロ風であったが、すばらしい出来で、先生が昔はこんな絵も描いていたのかと思った。大きさはF10号くらいではないかと思うが、一目見て良い作品だと感じた。  きっと本物だろうが、先生の絵にどのくらいの値段が付くのか興味がわいた。そして、鑑定結果はなんと200万円だった。先生の絵の価値にほっとした。

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2011年4月17日 (日)

迷惑かけた、、千葉、菜の花列車のたび

 今年も千葉の小湊鉄道と夷隅鉄道に沿線に咲く菜の花と桜を見に出かけた。去年、乗換駅の上総中野で発車時間までの間、写真を撮っていた人が列車に乗り遅れ、列車が止まると言うハップニングがあったが、今年は同じ駅で私がちょんぼをやってしまい、3人の男性に迷惑をかけてしまった。  私は1時間以上後の大原行きの電車にしようと決め、付近をスケッチに歩き始め、美しく咲いた桜や水の張られた田んぼなど田舎の風景を満喫していたところしばらくして携帯が鳴った。知らない人から「あんた、カバン間違えてるよ!」と言われ、背負っているバッグをよく見ると似ているけど自分のではない。、、しまった、駅のベンチで間違えて持ってきてしまったーー。スケッチどころではない。急いで駅に戻ると年配の3人の男の人たちがいた。彼らは前の列車に乗るはずだったのに、乗れず1時間以上待つはめになった。優しい人たちでよかった、、、ごめんなさい、皆さん。 写真はいすみ鉄道の小さな駅 -- 車窓から

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2011年4月16日 (土)

奥の細道への旅・象潟と鳥海山

今年の1月の東北旅行、秋田行きの特急電車は象潟(きさかた)のホームで止まり、まもなく出発した。車窓から見ると田んぼに雪が積もって平らな白い平原だ。ところどころに松ノ木がはえた緩やかな丘が点在する。  松島と並ぶ景勝の地だった象潟-- 地震の前まではー-。松尾芭蕉が旅をした当時は松島のような風景が広がっていた。ところが1804年、今から200年ほど前に付近で発生した大地震で一瞬に土地が2,5メートル隆起し、浅瀬の潟で小さな小島が点在していたところが一夜にして陸地となった。車窓から見るとその面影が今でも残っている。  地震前の象潟を芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んでいる。合歓(ねむ)の花も、雨にぬれてうつむいているように見えた。これが中国古代の伝説の美人「西施」を連想させる、と言うようなことだ。言葉の響きが美しいので私の好きな句だ。  このブログを書いている頃に東関東大震災が発生した。その被害があまりにも大きく旅のエッセイをブログ上に載せる気持ちになれなかった。江戸時代の地震では土地が2メートル以上も隆起したのだ。地震で当時の人がどんなに大変な思いをしたか思いをはせた。  鳥海山は東北本線の車窓から美しい山容が臨める山、大学生の頃、東北一人旅の途中に登った。夏から秋になる頃で天気がよく快適な山行だった。標高はそれほど高くないが、途中からは樹木がなくなり、草原のようになる。窪んだ所に雪があった。頂上下の神社までたどり着くと頂上は雲の中だった。あとは岩だらけのところを登るだけなのでそこから引き返すことにしたした。 ーー今回の冬の旅でも鳥海山は雲に覆われて頂上を望むことができなかった。列車が象潟を通り過ぎた頃、列車の中で1人昔のことを思い出していた。

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2011年4月14日 (木)

慶応大学・日吉の岡を臨む、桜が満開に

大震災から1ヶ月がたった。被災した地域はまだまだ大変なことが多い事だろうが、テレビや新聞などで報道される明るい顔の人々の姿や復興に向けての動きを見るにつけ、せめてもの救いを感じる。  桜の名所、夢見が崎公園の岡の桜が満開となった。今年はいつもより少し遅い。夢見が崎の岡から眺める慶応の岡方面、こちらの桜も美しい。しかし、4月になっても慶応大学のキャンパスにはまだ学生の姿は少ない。計画停電の影響などで授業の開始を遅くしたためだろう。  岡の下の工事現場は瓦礫が撤去され、平坦な土地となった。今は、次の工事再開に向けての間の期間なのだろう。ここにJRの官舎が新たに3棟建設されるようだ。この広い土地に3棟だ。空いた土地はどうなるのだろう。出来れば何も建てずに公園などとして残して欲しいと思うのだが。

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2011年4月 9日 (土)

洋画家「佐竹 徳氏」の作品に感銘を受ける

 私がもと勤めていたフェリス女学院大学で学長をしていた佐竹明先生のお父さんが佐竹徳画伯だ。風景画の巨匠だと聞いていたが作品をまとまってみたことがなかった。 それが、先日、東京の日動画廊で「金山平三・佐竹徳・刑部人 〜自然を謳う巨匠たち〜 」を見る機会があった。セザンヌの影響を受けたと分かるオリーブ畑や瀬戸内海の明るい海、渓流の新緑の美しさなど、画面構成がすばらしく、今も心に残っていていつも思い出す。モチーフはありふれたものだがこのようなものが本当の良さだと思った。 http://www.city.setouchi.lg.jp/~museum/satake3.html で作品を見ることが出来ます。 資料にはこんなことが書かれている。  日本芸術院会員で画家の佐竹徳(本名:佐竹徳次郎)画伯(1897~1998)は、大きな影響を与えたセザンヌが描く地中海に似た牛窓の景観に強く惹かれ、 瀬戸内の海の光に浸されて成長するオリーブや松をモチーフに、オリーブ園にある「赤屋根」をアトリエとして40年近く絵を描き続け、数多くの作品を制作し「オリーブの画家」と呼ばれ親しまれる。平成10年2月3日、満100歳で牛窓の地にてその生涯を閉じる。

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2011年4月 6日 (水)

東日本大震災お見舞い申しあげます。

   今年の1月に仙台市内で泊まったウエスティンホテルの窓に差し込む朝日、穏やかな夜明けだ。平らな仙台平野が何処までも続く。その先には薄く銀色に輝く海が広がっている。 かって訪れた友人の親戚のお宅は写真の先にある海に近い家だった。夏の一日を過ごした浜辺は美しい砂浜が広がっていた。  その時は思いもしなかった、あんなに大きな津波に襲われるとは、、、5人家族のそのお宅は、仙台に仕事に行っていたお姉さんとデイサービスの日だったおばあちゃんは助かったが、ご両親と妹さんが津浪に巻きこまれてしまった。家が流されたので助かった二人は避難所にいるそうだ。何もしてやれないのが悲しい。  今、復興に向けて多くの人が動いている。こんな時こそ皆が心を一つにして助け合っていければと思う。一日も早い復興を願っている。

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2011年2月17日 (木)

北加瀬のJR団地解体工事

 14日の夜からの雪が激しく降り、次の日の朝には久しぶりの雪景色となった。しかし、雪はあっという間になくなってしまった。JR団地の工事現場では団地を解体したコンクリートが日一日と少なくなっている.。 どうもこのような事に興味を持つのは男のような気がする。散歩の途中、坂道などで工事の様子を眺めているのはたいてい男の人だ。 写真: 遠方は東横線の元住吉方面、小高い岡にある建物は慶應義塾大学の工学部、矢上キャンパスです

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2011年1月29日 (土)

リスが逃げ出して2ヶ月、夢見が崎動物園

 毎日寒い日が続いいます。公園の道の柵に付いている4羽のスズメには毛糸の着物が着せられ暖かそうです。  それにしても昨年の11月末に檻から逃げ出した2匹アメリカアカリスは未だにつかまっていないようだ。枯れたこずえには餌はないだろうし、カラスや猫などリスにとって危険な動物も多い。それに水だってないのではないか。どうなっただろう。犬との散歩の足を止め、時々こずえを見上げるがリスの姿はない。

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2011年1月21日 (金)

富士を臨む夢見が崎動物公園下でJR団地の工事が始まる

 昨年から夢見が崎動物公園の西側でJR団地の取り壊しが始まった。10数棟の建物が壊され新しい建物が建設される。写真で横に広がる緑は横浜の日吉の丘、慶応義塾大学日吉キャンパスの記念館のドーム型の大きな屋根が臨める。寒さが厳しい冬の日の朝だったので遠く丹沢の山塊とその上にそびえる富士山の白い姿が美しい。  夢見が崎の西側は急な崖となっている。これは自然の崖ではなく、昭和の初期に新鶴見操車場を作るとき山を切り崩し、その土で田んぼを埋めたためだ。現在の横須賀線新川崎駅あたりはこの山の土で造成されたことだろう。そして平らになった公園の下の土地には木造平屋の国鉄官舎の長屋が昭和30年中ごろまであった。今取壊されている鉄筋の団地になったのはその後のことだ。時代の流れを感じる。  このところ犬との散歩にはよく工事の進み具合を見に行く。考えてみるとこのように高いところから工事の様子が見えることはないだろう、どのような建物が出来るのだろう興味深い、時々工事の進み具合を撮ってブログに報告してみようと思う。

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2011年1月13日 (木)

松尾芭蕉の奥の細道への旅、冬の山寺・立石寺

 松尾芭蕉の「しずかさや岩にしみいる蝉の声」の句で有名な山寺・立石寺(りつしゃくじ)に1人行ってきました。前日に泊った仙台は雪が日陰に残る位だったが、山形に向かう仙山線に乗ると外はすぐに雪景色となった。峠を越える頃にはこんな雪では山寺に行けるのかと危ぶまれるほど積もっていた。駅を降りるとそそり立つ山の上の方にお堂が見え(写真中央上にお堂)、できたらあそこまで行ってみたいなーと登りたい気をそそられた。  駅を出ると1台タクシーが1台止まっていたので上に行きたいとお願いしたが、行く道がないようなので歩くしかない。バックを引いて橋を渡り参道のほうに行ってみると、登り口付近のお店の優しそうな女の人が「荷物をお預かりしますよ、カバンを引いてでは登れませんよ」の言葉にカバンを預かっていただく事にした。参道の階段は雪が積もって滑りそうであったが、結構初詣のお参りに登る人がいた。長い階段の参道を登るのは大変だったが、山の上からは下界の山寺の家々たたずまい、電車の駅と線路、黒く流れる川が臨め美しい雪景色だった。 芭蕉は夏にこの寺を訪れたのだ。下の家々の景色は変わってもお寺の様子は昔と変わっていないことだろう。昔の旅は歩きで危険も多かったことだろうと思いを馳せた。  帰りに荷物を預かっていただいたお店で山形名物の芋煮とうどんを食べた。地元で始めて食べる芋煮だった。素朴な味であった。お店の人にまた暖かい時にいらっしゃいと言われ、今度雪がない時にまた訪れたいと思いつつ山寺をあとにした。登ることができてよかった。

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2011年1月 1日 (土)

汐留でのクリスマスイルミネくーション輝く時期、月光荘で個展をします

汐留でのクリスマスイルミネくーションです。本当に綺麗でまるで別世界のようですね。銀座、月光荘での三俣を描く会グループ展の帰りによってみました。 同じ時期の今年、私はその月光荘で個展をすることになりました。銀座で初の個展です。良い作品を展示しようと日々考えているところです。クリスマスのイルミネーションに負けないよう。皆様、今年も是非お出かけください。

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2010年12月31日 (金)

金沢21世紀美術館と二科巡回展

二科展の巡回展は表のように毎年日本の何ヶ所かで開催されている。会員、受賞作品、その地域の出品者の作品を展示している。絵は新国立美術館の二科展で見ているのでわざわざ行く事はないから行かない。巡回展はどんな感じなのだろうとは思っていたが一度も行った事はなかった。  前の個展で私の絵を買ってくださった清水さんと今回の個展の時、金沢市の美術館の設立に係わった彼の友人の話になり、その方が偶然私の大学の先輩だったので、今度その人を紹介するからと言ってくださった。それでは11月に金沢に行くことになったので、金沢に行くのならその美術館に行ってみないと、とインターネットで調べたところ、ちょうど二科展の巡回展をやっている。初めて巡回展を見る機会を得た。  金沢二科展には100号より大きな作品は展示されていなかったが、絵画、彫刻、写真、デザインポスターが1階と地階に分かれて展示されていた。作品に近づいて見て、あらためて作者が細かく神経を使って描いた部分を発見したり、みごたえのある多くの作品に再び触れることが出来た。  金沢21世紀美術館は金沢市の中心部の兼六公園の入口近くにある。広々とした敷地に作られた円形の建物で、自然に溶け合い良い空間だった。建物の中はいくつかに仕切られ、いろいろな催し物が行われていて、多くの人で賑わっていた。この辺が清水さんの友人が意図していたことなのだろうと思った。 写真は途中寄った敦賀の海    ●第95回記念二科展(本展)/ 国立新美術館 / 平成22年9月1日~13日 地 方 開 催 期 間 会   場 備 考 新潟展 平成22年10月9日~10月17日 新潟県民会館 大阪展 平成22年11月2日~11月14日 大阪市立美術館 金沢展 平成22年11月17日~11月24日 21世紀美術館 京都展 平成22年11月27日~12月5日 京都市美術館 名古屋展 平成22年12月14日~12月19日 愛知県美術館 福岡展 平成23年2月15日~2月20日 福岡市立美術館 鹿児島展 平成23年3月10日~3月21日 鹿児島県歴史資料センター 黎明館 熊本展 平成23年3月23日~4月3日 熊本県立美術館 広島展 平成23年4月12日~4月17日 広島県立美術館

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2010年12月30日 (木)

動脈瘤、父の体にできた

もうすぐ90歳になろうという父が動悸がすると言うのでかかりつけの医院で検査を受けることにした。結果を聞いたが特に悪いところもない。これならまだまだ大丈夫と一安心した。ただ、レントゲンによると血管の位置が普通のところと違うので、専門の病院で見てもらうようにとのことで病院を紹介していただいた。私は何の心配もせず、紹介された病院に同行したが、検査の結果、心臓から少し行ったところの血管が曲がったあたりに動脈瘤があると言う。血液の流れの力に押され、血管がその部分だけ膨らんでいったのだ。 医師の説明では、放っておくと1年以内には瘤が大きくなり破裂してしまうと言う。それはほとんど死を意味することと同じだ。でも、高齢の父は手術は受けたくないと言う。それも仕方ないかと私は思ったが、孫たちや他の家族は手術を受けたほうが良いと言う。その声に押され、父も手術を受ける気になった。この暮れには手術があり、父は正月は病院の予定であった。 手術は普通、血管を人口のものに交換する大掛かりのものだ。そのよう説明を医師から受け、暮れには手術があることを覚悟していた。ところが幸運なことにその後のCT検査で血管にチュウーブを通す方法でできると言う。腿のあたりから血管に管を入れるのだ。やり方が格段に簡単な方法になった。入院の期間も少なくて済む。これならそんなに心配する必要もない。手術の日どりは伸びたが安全なこともあり今は少し安心している。 このようなことを話すと周囲に同じような病気にかかった人が多くいることを知った。今は病気がわかれば治療がより安全に出来る時代になったようだ。それにしても検査の結果、病気が見つかったことと、2~3年前から日本でも血管内に管を通し膨らんだところに血が行かないようにするカテーテル治療が始まったことは父にとっては二重の幸運だ。

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2010年11月19日 (金)

天使のはしご、雲間からの一瞬の光

    一時、空の雲間から海原に降りそそぐ光、天からの柱のように見える、それを天使の梯子と言うそうなー。 、、、遠くにある島影、何処だか分かりますか。 そう、江ノ島です。旅情をそそる風景。今回は一服の清涼剤となれば、、、です。  

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タマゴダケを見つけた

 那須高原の秋、木立の中を歩いていると足元の先のほうに卵のようなものがあった。 上が紅色をしている。 近づいててみてみるとどうも人工物ではないような、始めてみる不思議な形だ。 少しはなれたところにも一つ小さな卵形のもの。 それには紅色の部分はない。 そのすぐ横にキノコが生えているところを見るとどうも卵型のものはキノコのようである。 それにしても不思議な形をしている。 後日、これが「タマゴダケ」と言うキノコだと教えていただいた。 ネットで調べてみるとこのキノコ、食べられるようだ。 それにしてもこんな形のキノコがあるなんてびっくりした。  図鑑などには成長したきのこが載っているので、成長途中のこのような形は実際に見ない限り、目に触れる機会がないから分からないのだろう。

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2010年11月 1日 (月)

個展の作品を友人に、自由が丘でのひと時

個展が終わった。秋も日ごとに深まりゆく今日この頃だ。 先日は個展の時絵を買っていただいた友人に作品を渡すため自由が丘 に出かけた。もう1人の仲間を誘い久しぶりの3人での再会。 窓から少し高いところを時々東横線が通るフランス料理店。 季節の生牡蠣、鮎の焼き物、こちらはシェフが釣ってきた 漁期最後の獲物。それから少し酸味があるデザートのケーキ、 それにワイン、どれもとてもおいしかった。良いひと時だった。 こうして個展のことも少しづつ終わっていく。 お出でいただいた皆様本当にありがとうございました。 それから来年、新野の盆踊り行くことになるかも、、。 ブログに書いた新野の盆踊りのことで個展の会期中に何人かの方と話しができた。 それに、なんと私のブログを新野の盆踊りの音頭とりだった方が見てくださり、 新野の盆踊りを紹介したことに感謝のコメント書いてくださった。 どんな方か分からないが今度行くことができたら声をかけられるかもしれない。 ブログを始めて2年になるが思いがけないメールをいただいたり、 いろいろな話のきっかけになったりしている。うれしいことだ。

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2010年9月14日 (火)

個展開催時期がせまる。作品作りに終われる日々

皆様 ブログを読んでいただきましてありがとうございます。今回は個展の案内をさせていただきます。 2年ぶりの個展開催の時期が迫ってきました。今回は昨年、神奈川二科展で記念賞をいただいた100号の作品(写真)など大きな作品も見ていただこうと思います。また、作品は風景を中心に油彩にしようと日々格闘しています。 やっと案内はがきが出来上がりました。 会期は9月29日(水)から10月5日(火)まで、10時から7時(最終日4時まで)です。 会場は横浜そごうがあるビルの9階ギャラリー「ダダ」で行います。横浜駅東口からすぐです。お時間がありましたら是非お出かけください。 作品への感想、ブログの感想など遠慮なくいただければうれしく思います。私は食事の時間以外は会場にいる予定です。

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2010年9月12日 (日)

星野道雄さん、雄大なアラスカの自然を写真と文章に残した人

アラスカの自然と動物の写真を撮り続けた星野道雄さん、すばらしい写真とみずみずしい文章を残し、40歳を少し過ぎたとき不慮の事故で亡くなってしまった。 日本のテレビの仕事でカムチャッカに渡り、小屋の外に1人テントを張っていて 熊に襲われた。皆と小屋に泊まればよかったのにテント生活に慣れ、孤独を愛していた星野さんは1人小屋の外にテントを張ったのだった。カムチャッカの熊はテントの中に食べ物があると襲ったようだ。 星野さんは亡くなる何年か前にアラスカの自然を子供たちに体験させたいと オーロラクラブを作り、毎年3月にアラスカの氷原でキャンプをしていた。 星野さんには面識はなかったが、星野さんと大学の探検部仲間だった 友人からオーロラクラブを作るので入って欲しいと誘われるままに入会した。 当時、私は仕事が忙しい時期だったし、寒いのは苦手だったので 参加することはなかった。彼の写真集や本、カレンダーをいただいていた。 写真とともにアラスカの原野で思索し綴った 文章は星野さんにしか書けないすばらしいものだ。 アラスカの空気が伝わってくるような気がする。 今は日本の教科書に彼の文章が載っている。   今月はNHK教育テレビ「こだわり人物伝」で星野さんが取上げられている。 9月に4回シリーズ、今週15日水曜日午後10時25分からは彼の奥さんが出演する。

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2010年9月 3日 (金)

工藤静香さんが受賞、二科展が始まる

 1日から六本木の国立新美術館で始まった 第95回記念 二科展、大方の方が1日に来たので2日の会場は静かだった。 ところが2階の入口に大勢の人だかり。何かと思ったら歌手・工藤静香さんが『瞳の奥』で特選に選ばれたのでマスコミの共同取材だった。ちょうど彼女が絵の前でインタビューを受けていた。彼女、水色の薄いワンピースで日に焼けていたが清楚な印象で好感が持てた。写真は工藤静香さんの作品です。  今日3日にテレビでそれを放送しているのを見た。受賞の喜びの言葉の中で、彼女は特選をとって初めて上にいける権利が出たようなものと言っていた。つまり、もっと頑張って会友、会員になりたいと言うことか、、、。                                  それからこんなエピソードを披露していた。 子供が小さいとき近くにアトリエを持っていて、子供が寝てからそこに絵を描きにいっていたが、ある時、子供が起きて泣き出し、母親に呼ばれ、あわてて飛んでいったこともあったとか、、。頑張っているのですねー。これからも良い絵を描いて欲しいと思います。  私の作品の事は ノーコメント。 ―もっと良い絵を描かねば。ともかく9月29日からの個展に向けてよい作品を作らねば、、という気持ちです。

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2010年8月29日 (日)

朝まで踊る新野の盆踊り、知っていますか?

大学の時、民俗学を勉強するグループで訪れた南長野、天竜川から入る山奥、新野の里で500年以上も続いている盆踊りに行ってみた。 新野は長野の飯田線沿線の山の中の里だ。豊橋から飯田線に乗って温田まで約3時間そこからまたバスに乗って着いたのは夕方、本当に久しぶりであった。道は広くなり綺麗になったようだが丘陵に広がる田んぼと家々のたたずまいはあまり変わってないような気がした。 盆踊りは毎年8月14日から16日まで、村の中央の通りを輪になって朝まで踊る。最後の日の朝は踊り神送りで新盆の家の灯篭をもって村の寺に行こうとする行列と終わる前に輪を作って最後まで踊ろうとする人々で熱気に包まれる。その感動的な行事をもう一度見たかった。 新野の盆踊りは鳴り物を一切使わない。音頭台の上にいる5、6人の音頭取りが一句を始め、朝まで唄い踊り続ける。音頭取りと踊り子の歌の間合いやかけ合いで進行していく。私も扇子を買って、初めて踊りの輪に加わってみた。同じ所作の繰り返しなので少しづつ様になってくる。しかし、まだ返しの音頭は歌えない。今度は詞を覚えて行ってみたいとも思う。 後から私の後ろに入って踊っていた高校生くらいの浴衣の美少女は返しの歌をなれた様子で歌いながら踊っていた。夜明けに近づきだんだん明るくなる頃、「あー終わってしまう、」と小さな声で言い、涙を浴衣でぬぐっつた。本当に踊りが好きなのだろう。 そして、最後の踊り神送り、灯篭の行列の前でいくつもいくつも踊りの輪が出来ては行列に飲み込まれていった。新野の盆踊りが終わった。少女やたくさんの踊りの好きな人々に支えられた宗教行事、こんな思いでいる人たちがいる新野の盆踊りは有名にならなくても良い、いつまでも続いて欲しい。

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フェリス女学院のパイプオルガンを見てきました

フェリス女学院のパイプオルガンのお披露目会に行ってきました。 こんな立派なオルガンで講堂によくマッチしていました。鳥のさえずりの音も出るのです。 その音のだし方を終了後製作者が内部を見せて教えてくれました。木と金属を動物の皮などをはじめから一つ一つ手作りで何年もかけて作ったことに感動を覚えました。 参加した女性たちが歌う賛美歌の声とパイプオルガンの響がよく調和し、本当にうっとりさせられました、最後に歌った賛美歌ではオルガンの中央部上にある金色の星がまわり、たえなる鈴の音が響きました。 これにはまたびっくりでした。 9月からは毎日の礼拝に使用されますが、すばらしい賛美歌が奏でられ、在校生の心に長く記憶されることだろうと思います。

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2010年7月16日 (金)

フェリスにパイプオルガン,連絡通路設置に貢献できたこと

 フェリス女学院の中高の講堂のパイプオルガンはフランスのガルニエ社が制作していたがようやく完成した。8月の末にお披露目の会を行うとのご案内をいただいた。中高の1000人規模の立派なカイパー記念講堂にパイプオルガンがついた。礼拝用なのでそれほど大きくないがどんなにかすばらしい音が出ることだろう。  私が法人事務局に在職中に同窓会から寄贈の申し出があり、パイプオルガン設置の委員会で検討がしていた計画だ。パイプオルガンの設置には事務方として委員会に参加していたが、途中で退職したので後任に引き継いだ。だから、やっと完成したことに感慨をおぼえる。お披露目の会は遠慮して、いつかそっと見に行こうかとも思っていたが中高の室長からわざわざお誘いのメールをいただいたので行ってこようと思う。  私はフェリスには34年在職したが、今思うと一番良かったのは中高の連絡通路の建設について、建物の廊下部分を延長したところと、新たに出来た建物の敷地の一角を橋で結ぶ案を思いつき提案できたことだ。学院の施設コンサルタントのTさんにこれで建設が可能か見ていただき大丈夫との事なので申請書を作成し、内々に横浜市に相談にいった。そうしたら今回はあっさり建設しても良いとの了解が取れた。  フェリス中高の元の敷地から坂にある階段道を越えて隣の敷地に渡る連絡通路、あることが当たり前のようになった連絡通路であるが、横浜市に公道を渡って通路を作ることを認めてもらうまで長い年月がかかった。  隣接した敷地を購入した際、敷地を一体にしたかったので横浜市に相談に伺ったが敷地の間にある公道を敷地の別なところに付け替えることも、坂を空中で越える連絡通路を作る事も認めてもらえなかった。理由は下に車が通っていないので前例がないとのことだった。  やがて、新しい敷地に図書室や調理室、会議室などのための建物ができたが、そこに行くには外部の公道に一旦出て隣の建物に行くことになるので、安全のため警備員がいつも見守っていた。  近年になって、学校は不審者の侵入の対策が必要となる時代となったこともあり、横浜市に認めてもらうことができたのだろうと思う。具体的に建設が始まるまで委員会で形状なども検討し、横浜市とも何度も調整をおこなった。また、山手の景観に配慮も必要であり、近隣の方々にも説明を行った。そんなことを経てやっと1年後に完成した。 皆に喜ば...

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2010年6月24日 (木)

「みやびブックレット」連載のカメラマン長尾さんのエッセイから「両国、隅田川」

フリーカメラマン長尾宏さんの奥さんから最近送っていただいた 「みやびブックレット」(みやび出版発行) 毎回長尾さんが東京の下町をカメラを持って訪れたエッセイが載っている。 春号は両国だった。長尾さんは墨田川にかかる両国橋のところの工事現場の壁に大きく貼られた北斎の「両国納涼図」をみたことを書いている。きっと驚くのはその変わりぶりだろう。 私も何年か前、このあたりを見学する会に参加したことがあった。 ねずみ小僧の墓に行ったり、相撲のゆかりの場所を尋ねたり、 江戸時代のことを思っての散策は楽しいものだった。 昔は河岸に立てば隅田川の川面がみえた。両国橋から少し行ったところに居を構えていた葛飾北斎の家のあたりには今は何の変哲もない大通りだが堀川があった。 隅田川界隈は大きな橋があり、多くの人々行きかった。 花火があったり、納涼の船が出たり、川をめぐりよい暮らしがあったようだ。 東京が美しく大きな町に変貌していくのとは反対に長尾さんが撮っている 東京の下町の人情や風情もだんだん薄くなっていく気がする。 人々との強いかかわりがこれからの社会にはもっと必要なことと思うが。 やはり隅田川のことで平安時代の伊勢物語に私の好きなこんなくだりがある。 「むかしおとこ」は京都にいても仕方なく思い、友達を連れ立って京の都から東国にくだる。 そして、はるばるやってきた隅田川のほとりで感慨深く思いいた時、 渡守が「早く船に乗りなさい。日が暮れるから」と言うので船に乗ろうとして いたが、皆わびしくて、京都に思う人がないこともない。 その時、白き鳥が水の上に遊びつつ魚を食べていた。 何という鳥かと渡守に尋ねたところ、都鳥(ユリカモメ)だと言う。 そこで男は「名にしおわば いざ事問はむ 都鳥 わが想う人は 在りや亡しやと」 と詠む。そのうたに船の皆が泣いた。 感傷的だが、旅の心細さが伝わってくる。 当時の日本の人口は今の10分の1くらいだったようだ。 そして夜には家々からもれる明かりもなかった。 人恋しさは今と比べようがなかったことだろう。

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2010年6月13日 (日)

西村亨先生の著書「源氏物語とその作者たち」刊行によせて

 今日はちょっと良い事があった。朝、NHKの週刊ブックレビューをなんとなく見ていたら夢枕獏さんが「源氏物語とその作者たち」(文春新書)を紹介していた。「へ-、源氏物語の作者って紫式部ではないのか。」と思っていたら、作者がなんと大学のゼミの西村亨先生だった。  大学時代はそれほどまじめではない学生だった私だが、このところ国文学専攻のクラス会幹事を仰せつかっている。西村先生には6年前に開いたクラス会のご案内したところ、大病を患ったあとだったが、今後は伊豆に転居するので東京には出にくくなるだろうとクラス会に出席してくださった。年齢も80歳を超え、健康状態が優れずその後お目にかかっていないので、心の片隅で先生のご健康を案じていたのだが、ああ、先生、今も元気でやっているのだなーと言う思いと、先生、良い本をだされてすばらしいですねと言う気持ちだった。 今日、早速先生の本を求め、読んでみた。あまりまじめに勉強していなかった私には平易に書かれている本だが簡単には読めない。  それにしても大学同期の作家「リンボウ先生」こと林望さんが3月に「謹訳源氏物語」(祥伝社刊)を発刊している。やはり研究を続けていった先は源氏物語に行き着くのだろうか、同じ時期に源氏物語と言う偶然に驚く。林さんの「謹訳源氏物語」も読んでみようか。昔の知り合いが元気で活躍されていることがとてもうれしい。

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2010年5月31日 (月)

早慶戦観戦記、慶応義塾大学が11シーズンぶりの優勝

 今春の東京六大学野球リーグ戦は慶応と早稲田は調子が良く、シーズン最後に行われる早慶戦で勝った方が優勝である。慶応が先勝し次は早稲田が勝った。そして今日の第3戦、どちらか勝った方が優勝だ。これは是非見に行かなくてはと思い観戦に出かけた。  考えてみると大学をでて始めての早慶戦の観戦だ。平日の神宮球場、一般の内野席はOBやファンたちで一杯だった。しかし、早稲田の外野応援席の一部は空席だ。私が学生の頃は野球が全盛の時だったから優勝がかかっていない早慶戦でも球場はいつもあふれんばかりの状態だった。そして勝っても負けても大騒ぎをした。私の母校の慶応は銀座のライオンや日比谷公園に繰出し、毎年春と秋には優勝したかのような大騒ぎだった。  さて、試合のほうは慶応が、かって、高校野球で話題となったハンカチ王子こと斎藤から先取点を取り彼をノックアウト、これは優勝かと思われたらあっという間に4点差が2点差となった。しかし、また慶応がすぐに追加点を入れ、その後早稲田が点を取る。手に汗握る展開となった。慶応の2点リードで迎えた9回裏にも早稲田がノーアウトからヒットでランナーを出し、次の打者から良いあたりが外野に飛びヒヤッとする。しかし、最後は慶応の押さえの投手が打者を内野ゴロで押さえ、慶応の11シーズンぶりの優勝が決まった。  私は久しぶりの母校の優勝に立会えて感激した。試合の後、優勝パレードが行われるとのことだが優勝のセレモニーをみて球場を後にした。今でも試合の後、銀座に繰出したりするのだろうか。いずれにしてもいろいろな面で頑張っている後輩たちにエールを送りたい。 優勝が決まった瞬間の慶応応援団

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2010年5月17日 (月)

川崎から消えゆくどんと焼き

昔から1月15日の小正月の頃に、お飾りや門松を焚き上げ、その年の 健康を願うどんと焼きの行事がわが町川崎から消えてゆこうとしている。 ドンと焼きの火は夕暮れの夜空を赤々と焦がし、やがて火の勢いが下火になると餅を残り火に入れ、焼いて食べる。その餅を食べると風邪を引かないと言われていた。 子供の頃、近所の家々から何人かで松飾をもらって歩く。そしてそのお飾りを竹を組んだ櫓の中にそれを入れる。火をつけるとあっという間に冬の夜空を焦がす火となる。 昔のことを思うと近所をまわって歩いたことや夜空を焦がす火が懐かしく思い出される。 私の住んでいるところは家が建て込み、とうになくなってしまっているが、 同じ町内で川崎で唯一、南加瀬の公園の一角で行われてきたドンと焼き、 午前に町内会で行うので夜空を赤々と焦がす火ではないが 住宅に近く、他に移さざるを得なくなった。 次の世代の子供たちのためにもと続けられてきた行事でもあり、 これを機会に広いところでもう少し大々的にやろうとの提案もあった。 しかし、相談のあった私たちの団体の意見がまとまらず 残念ながら今年限りとなりそうである。 ドンと焼きに限らず昔からの行事は少しずつ消えてゆく。 あるものは形を変えて受け継がれたりするがそれでも時代とともに変わっていくのだろう。

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2010年4月19日 (月)

神奈川二科展が終わり、犬と過ごす飼育の日(4月19日)

二科会神奈川支部の最大のイベントが昨日無事終了した。今日は展覧会のもろもろのことを考えなくて良いので久しぶりに気持ちがゆったりしている。  朝、レッドリバーと夢見ヶ崎動物公園を散歩をすると、動物園でイベントがあるようだった。今日は4月19日、飼育の日(シイク)だからだが、そんな日があることを始めて知った。朝から報道の腕章をした人が撮影の準備をしていたり、NHKの車までもが来た。ペンギンの給餌見学、ヘラジカやシマウマ舎の見学、動物病院や調理場見学と盛り沢山なイベントが予定されている。だが、わざわざ来ている人をほとんど見かけない。いつもと同じような公園風景であった。飼育係の人は人集めが大変そうだったが、鼻をなでてあげているシマウマは朝の食事中でこちらに寄ってこなかった。しかたなく公園を一回りして帰ってきた。  夕方、鶴見川と矢上川の合流あたりを久しぶりに散歩した。川の一部をせき止めて工事をしていたが、小型の船が接岸できるところが完成していた。鶴見川クルーズが始まるのだろうか。水辺を美しくして活用するのは良いことと思う。散歩したあたりは川辺の自然も残っていて夕焼けの頃が良い。真っ黒な富士山と夕焼けが川面に映る光景はすばらしい。今日は「チャーリー」や「マリ」たちにも久しぶりに会った。彼らは外人ではない。うちの犬の仲間だ。  4月も半ばとなると木々の緑が日一日と濃くなっていくことが分かる。やっと春本番だ。少し休んだらまた作品作りにかからねば、、、。秋の二科展は9月1日から13日まで六本木の新国立美術館で行われる。また、私の個展を9月29日から10月5日まで横浜そごう上のギャラリー「ダダ」で行う予定だ。その時は皆さん是非お出かけください。 夕焼けの鶴見川と矢上川の合流付近      

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2010年4月16日 (金)

事務局長として迎えた神奈川二科展が始まる。

今年も恒例の神奈川二科展が横浜の市民ギャラリーで 始まった。18日(日)には最終日を迎える。 絵画が150点ほど、それに写真が200点あまり、 皆がそれぞれ大変な時間と労力を費やしての作品は 見ごたえがある。良い展覧会となったと思う。 今回の展覧会は私にとっては特別のものだ。 昨年の8月に事務局長をしていた笠松氏が突然なくなってしまい、私がその後を引き継ぐことになった。 賞や後援の申請、ギャラリーの諸手続き、関係書類の作成や配布などなど、抜けている事がないか知っている人たちに教えてもらいながら進めてきてた。それでも.前日になって笠松氏の遺作をかざる事になったり、賞に押す印鑑がない事がわかったり、不安の中の開幕だった。 私の作品は、昨年は年度記念賞をいただき、作品も良い所に展示していただき 笠松氏からも評価していただいたように思っているが、打ち上げの宴会の席で笠松氏から「左右対称にならないようにしろ」とのアドバイスをしていただいた。 その言葉がずっと心のどこかにあっての作品づくりだった。今年の私の作品はまとまりもメリハリも良くなく、笠松氏のアドバイスは秋の二科展に向けて生かすしかないと思っている。 元気だった笠松氏いなくなりやはり寂しいが、相次いでなくなってしまった二科の他の男性たちのことも思い出される。皆がいてくれたらと思う今日この頃だ。

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2010年4月14日 (水)

いすみ鉄道と小湊鉄道、菜の花列車の旅

3月も半ば過ぎになると気になる所がある。 もう菜の花は咲いただろうか?今年も見てみたい。 房総半島のほぼ中央部を横断する鉄道の いすみ鉄道と小湊鉄道、このローカル線の 沿線は春になると線路の両側がずっと菜の花のベルトとなる。 そして、桜が咲き春爛漫のこの沿線は 菜の花、タンポポ、桜、様々な春の花の競演だ。 乗ってみたいと思いながら乗る機会がなかったが、 2年前の春の日、思い立ってスケッチブックを持ち出かけた。 そうして去年も出かけ養老渓谷を散策し、大喜多城に行ってみた。少し病み付きになった感がある。 気温が高くなり、春らしくなった日、今年は外房の大原から房総半島を横断し 五井を目指すことにした。 大原からのいすみ鉄道は1時間に1本はあるのだが乗り換えの上総中野から 五井までの小湊鉄道は本数が極端に少ない。 2時のつぎは5時過ぎの最終便だ。 今回、上総中野2時発の五井行きの電車で乗り遅れた人が出た。 走り始めてすぐ、乗客の1人があわてて1人乗っていないのだけど と運転手に言った。どうなるかと思ったら運転手は電車を止めた。1両の車両は駅を出て少しのところで止まった。年配の男性は乗り換えの短い時間に写真を撮っていたのだろうか、次の便を3時間あまり待つことなく乗せてもらい、事なきを得た。 今年も田舎の景色と線路脇に延々と咲く菜の花をめでる小さな旅をした。 朝早く出かけ、興津や鵜原の浜辺も散策した。良い気分に浸れた一日だった。

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2010年3月31日 (水)

国宝の等伯の松林図と秋草文壷を見る、その共通点

3月の中旬、ようやく暖かくなった日、長谷川等伯展をみた。 上野の国立博物館は休日の午後だったので40分待ちの状態だった。 等伯の絵を好きな人がこれほど多いのかとあらためて感心した。 何といっても松林図がすばらしかった。 襖に松の木が何本か描かれているだけ、タッチは荒々しく、 一気に描いたようだ。 画集で見るその作品の特異性は分かるが 正直、その良さは分からなかった。 ところが本物の前に立つとその空気感が伝わってくる。 等伯が初期に描いた仏画や数々の襖絵、 もちろん智積院にある国宝の襖絵はすばらしかったが 等伯の集大成として松林図はあるのではないかと感じた。 絵の良さは決してそれにかけた時間ではなくそれまでに その人に蓄積された中から染み出てくるものの中にあるような気がする。 同じ建物の1階には日本の古代の発掘されたものが展示されていた。 その中に国宝の秋草文壷が展示されていた。この壷を見るのは久しぶりだ。 やはり等伯の絵の勢いと同じようにススキやキュウリ、柳などの植物と、 トンボの風物がへら描きによって力強く描かれている。その時描いた人の姿までが 見えてくるような気がする。とてもすばらしいものだ。 この壷はわが町、南加瀬にある夢見が崎動物公園の西側に位置する白山古墳 の近くで発見された。 発見されたのは私の父が子供の頃で、父は発掘を見に行ったそうだ。 発掘に係わった慶應義塾の所蔵で後に国立博物館に寄託された。 平安時代末の12世紀後半頃に愛知県の常滑の古窯で焼かれたものだそうな。 川崎市唯一の国宝である。100万人を超える人口を抱える川崎市に一つの国宝とはさびしい気もするが、、、。 秋草文壷

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2010年3月13日 (土)

モネのアトリエ訪問記

昨年モネのアトリエに訪問した時に購入したカレンダーが 我が家にかかっている。 モネの絵は大好きで、傑作を見るたびに作品の構成に感心させられる。 モネのアトリエを訪問したときの事を記しておきたい。 一ヶ月足らずのヨーロッパ一人旅もそろそろ終わりになる頃、 小雨ではあったが、パリのサンラザール駅より近郊にいく電車にのって 出かけた。ところが、電車に乗って少ししてガイドブックを見ると その日はモネのアトリエは休みの日となっていた。 しかし、セーヌ川に沿って走る電車は急行で約1時間止まらない。 もう他に日が取れないのでジベルニーまでは行ってみる事にした。 小さな町、最寄の駅のヴェルノンで降り、駅前から路線バスに乗りジベルニーまで行った。少しの観光客と課外活動のような小学生たちがたくさん乗っていた。 小雨で静かなジベルーニーの村の村道を歩き、村にある教会に行った。 傾斜地にある墓地にはモネのひときは立派な墓があった。それから村にある美術館でモネの絵を見て、レストランに入り食事をとり、最後にアトリエを外から覗いて帰ろうと行ってみた。ところがなんと、開館しているではないか。 モネのアトリエの広大な庭園はセーヌ川のすぐ近くにある。 モネがスイレンを描いたときと同じように手入れがされている。 モネが描いた柳も池にかかる橋もモネがいた頃とあまり変わらない状態だ。 大きな家にモネが集めた浮世絵がたくさんあり、アトリエとしていたところには モネの風景画の複製名画がたくさんかかっていた。休みの日となっていたからか、日本人には一人も会わなかった。静かなモネのアトリエで気持ちの良い一時をすごすことができた。 モネははじめから成功したわけではない。絵が売れなかった頃の生活は苦しく、 体の弱かった最初の奥さんを亡くしている。 ジベルニーで毎日睡蓮の絵を描いたのは彼が絵描きとして成功してからだ。 再婚した二度目の奥さんと平和に暮らしたのだろう。 当時は汽車ができたばかりの頃で、セザンヌは彼が生まれた 南仏のエクサンプロバンスにいた。また、南仏にいたゴッホはゴーギャンをそこに呼んでいる。互いに離れた距離にいても汽車が出来たことにより 絵描きどおしも交流がしやすくなったのだ。 それが印象派の絵の展開やその後の絵画の急速な変遷にも大きく係わったことだろう。 さらに発達した文明の利器により、夕方には再びパリ...

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2010年3月12日 (金)

ほろ苦い演奏に終わったピアノ発表会

ピアノ発表会が終わった 私たちの演奏はほろ苦い演奏だった、演奏はどうも思うようにならないと 満足感がない。 最初のベンはまずまず、無事に終わった。 ウイアーザワールドは結構長く、同じ繰り返しが10回もある。 しかも、最後は半音あげて2回くり返して終わりとなる。 私はコードを紙に書き、繰り返しには 色をつけて間違わないようにそれを見ての演奏だった。 妻のほうは余裕と思っていたが2週間前から風邪を引き しばらく練習は出来なかった。 だからか舞台ではあがっていたようだった。 最後のほうに差し掛かり、妻が最後の小節に入っていかない。 だからコードが合わなくなった。 妻は演奏を止めてしまった。 そして最後の所を合奏して終わった。 緊張して間違えた人もいたが、とても上手に弾く人もいた。 でも、ピアノの音色の美しさ、表情の豊かさに感動を覚えた演奏会だった。 妻の友人が何人か来てくれていて、皆さんそれぞれ良かった と言ってくださった。 まー、出演できて良かったと思う。

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2010年3月 2日 (火)

ギターで出演することになったピアノの発表会

妻からマイケルジャクソンの曲にギターで合わせてくれない? との話しがあったので何年ぶりかでギターを触った。 マイケルのベンとウイアーザワールドをピアノに合わせて弾いた。 合奏するのはやはり楽しい。 ところがそれが妻のピアノの発表会の曲とは知らなかった。 なかなか良いと言われ、出るかどうか確認されることもなく発表会 で伴奏をすることになっていた。 毎年銀座の十字屋ホールでやっている「ピアノのつどい」もう53回にもなる。 あるときは妻の発表会、2人の子供が加わったときも何回かあった。 今度は私が伴奏で初めて出る側になった。 まだヤマハホールでやっていた頃、政治家の舛添さんに似ている人がいるものだと 思っていたら、お孫さん?が発表会にでていて本人であった。 ちょっと怖い顔の舛添さんがかわいい女の子の手を引いている光景を 思い出す。厚生労働大臣をする前の頃のことだ。 いよいよ発表会も7日の日曜日、どうなるだろうか。

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2010年3月 1日 (月)

夢見ヶ崎動物公園から臨める山並み・三県の最高峰

夢見ヶ崎動物公園 西の展望台になっているところから冬の晴れた日には遠く雪をいただいた 山並みを臨むことができる。 神奈川県、東京、埼玉県三県の最高峰が同時に望める。 関東平野からはこのように眺められるところは少ないのではないか。 神奈川県の最高峰 蛭ヶ岳、東京の最高峰、雲取山 それから埼玉県の最高峰は三宝山、一番高いのが埼玉県の三宝山、 知らなかったけど埼玉県には高い山がある。 三宝山は秩父の山で、縦走路からは少し外れている。 秩父縦走を一時あこがれた、しかし、長い山行になりそうで、尻込みしているうちに やがて興味が消えてしまい、今はもうきっと行けないだろう。 雲取もずっと憧れの山だったがまだ山頂を極めていない。 蛭ヶ岳には学生時代、雨が上がった時に突然思い立って一人登山した。 小田急の渋沢駅から大倉に出て大倉尾根を登り、塔が岳の尊仏小屋に泊った。 塔が岳からは相模湾と伊豆諸島が見えよい景色だった。 そして、翌日一人蛭ヶ岳を目指した。 秋の日、蛭ヶ岳の途中の草原や、その先の姫次あたりのススキの原は 今も心に残る、とても良い山行だった。 下山して橋本方面行きバスを待っていた時、後から少し遅れて 下山してきた同輩の若者に会った。駅に着くまで一緒で、住所を交換したがついにそれきりとなった。もう遠い昔のことだ。 最近、高校、大学と同じで、昔良く一緒に登山をした友人と会った。 山の話などをし、昔登山した山のことを思い出した。

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2010年1月24日 (日)

「千の風になって」の原作詩者が分かった事に

「千の風になって」の銘のあるベンチのことを書いた日、 朝日新聞の夕刊に「千の風になって」の原詩の作者が米国の主婦だった 事が分かったとの記事が載っているのを見つけた。この偶然にびっくりした。 この歌は作家の新井満さんが原詩を訳し、曲をつけたものだったが 誰の詩なのかわかっていなかった。 原作詩者のマリーさんは2004年に亡くなっているが、生前に友人のユダヤ人女性が、 ナチスの台頭でドイツに残してきた母の死に目に会えず、「せめてお墓の前でさようならを 言えたら」と泣きじゃくるのを慰めるために書いたものだったのだとかーー。 始めにマリーさんが書いた「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」の詩をユダヤ女性の友人がこれをもとに追悼カードにした事により少しずつ形を変え広まっていったようだ。ーーとの事。 夢見が崎公園のそのベンチからは北にインコの檻や鶏舎の間から東京方面が見える。 西には日吉や遠く秩父の山並み、南は横浜方面が望める一番見晴らしが良いところにある。ベンチを贈った人は大空を吹き渡っていく風の通り道を意識してこの場所にしたのだろうか?  ベンチの近くにいるインコは時々「オハヨー」とか「ホーホケキョ」と大きな声で鳴いている。さわやかで愛嬌のある鳴き声があたりに伝わる。ほっとする思いがする。

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2010年1月23日 (土)

夢見が崎動物公園のベンチに刻まれた悲しい思い

小高い岡の上にある公園から、晴れた冬の日には丹沢山塊とその上に 白くそびえる富士山の真っ白な優美な姿が望める。 いつも犬と散歩をする夢見が崎動物公園にはところどころに人々から 寄贈されたベンチがある。 良いことの記念に寄贈されたものもあるが、人生良いときばかりではない 悲しい別れがあり、つらい思いをすることもある。 こんな銘が付けられているものが小動物コーナーの隅にひっそりと置かれている。 「千の風になって」の歌詞と同じ銘だが、そこにはきっと悲しい別れがあったことだろう。 残された母親と子供の気持ちが死んだ父親に届き二人は元気に暮らしているだろうか。 パパへ 鳥になって風になって見守ってください  YUKIKO  YUJI

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2010年1月21日 (木)

インドネシアのバリに行ってきました

 インドネシアのバリ、赤道を越えた常夏の国に行きました。リゾートホテルでゆったり過ごしたり、バリの町や自然を見たりとても楽しい旅行でした。パラセールやダイビングの体験もしました。 一方でバリの人々の生活も垣間見ることが出来ていろいろ考えさせられました。 ホテルの美しい庭や人々の姿、バイクがあふれる町の喧騒など今でも耳に残っています。  12月になって妻に、正月にグアムに行ってみようかかと声をかけたらすぐにのってきて、下の娘も一緒に行くことになり、友人で旅行代理店をやっているM氏にいろいろ手配していただきました。結局グァムやハワイはもう満員でM氏が勧めてくれたバリに3人で行くことになりました。  バリはバスや電車などの公共交通機関がなく、タクシーで見て回っても良かったのだが、結局ツアーの人にお世話になりました。住んでいる人も町に出るには車かバイクで行くしかないようです。それに電力の供給が需要に追いつかず、時々場所を変えて停電をせざるを得ないようで、便利な日本にいると考えられないことも多いようです。  道の両側にあるお店は質素なつくりものも多く、貧しいのかなと思いましたが一歩村のなかへ足を踏み入れると思ったより豊かな感じがしました。それと宗教的な施設が多く、ヒンドゥー教を深く信仰しているのを感じました。結婚式や葬式などは皆地域の人が助け合って行うのです。農村には水田が広がり何十年か前の日本のようでした。  砂浜から少し中に入ったホテルの庭の木陰でスケッチをしているといろいろな人が覗いたり声をかけたりしていきました。明るくて暖くて心地よかったです。

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2009年12月28日 (月)

夏目漱石の未完「明暗」の続きを書き継いだ粂川先生のこと

 3年前の私の個展の時はプロ野球選手だった根来さんが来てくださって、その時ご一緒したのがフェリスの国文学科の先生だった粂川先生、それにもう一人、陶芸をやっているN女史。  平日だったので3人にお座りいただきしばしお話しをした。しかし、始めの紹介がなかなかかみ合わない、「こちらは元プロ野球の選手であの金田の捕手をやっていたのです。」 先生「、、、、、」  しばらく先生のやっている銅版画の話をした後,  根来さんの住まいは茅ヶ崎で、、、こちらの粂川先生は鎌倉ですが、、、、 先生「私がやっている銅版画の展示会を茅ヶ崎の〇〇という店でやったことがあります。」 「ああ、そこはいつも散歩の途中よっているとことです。」 ああ、良かったやっと話が通じた。  それでも良いひと時であったと思えるのは皆さん心温かい人たちだったからと思う。  粂川先生が20年の長きにわたって書き継いできた『明暗 ある終章』(論創社)をいただいた。夏目漱石が書いたらこう書くだろうと考え書いたもので、「明暗」とともに長く読まれていけば先生は満足なのではないかと思う。 挿絵まで当時の挿絵にあわせ自分で描く凝り様で、当時を再現するのに 目に見えない大変な苦労があっただろうが、先生は嬉々としてやっていたような気がする。  先日は10年来通っている銅版画工房の同人誌のような「工房万華鏡」創刊号をいただいた。私もかって銅版画を習っていたことがあったので失敗の話などは昔のことを思い出し、とても興味をもって読ませていただいた。 先生は今年喜寿を迎え、かってのフェリス女学院大学の教え子が祝ってくれたとのことだが 好きなことを楽しんでやっている様子でいいなーと思う。

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2009年12月23日 (水)

400勝投手金田の捕手だった故根来広光さんとのある交流

 根来広光さんがなくなった。プロ野球の選手として国鉄スワローズで金田正一の球をノーサインで捕れるまでになった捕手として活躍した。 現役引退後のオリックス二軍監督時代には、入団一年目のイチローを一年間育てた人だ。   11月に胃癌で倒れたのだった。私にとっては新潟、三俣のロッジに何回かスケッチ旅行をした絵の仲間であった。昨年、私の個展の時、ギャラリーに行けない事のお詫びの電話をいただいた。何度かしかあっていないけど、根来さんの絵は柔らかで色合いがよく、私が好きな絵だったので、いつもいいですねーとほめていた。プロ野球選手にしては小柄で威圧感はなく、優しい気配りの人だった。  その電話で 「根来さん、私の姪が今、イチローさんのところでアシスタントをやっているのですよ。」  (シアトルにいる姪はこの何年かイチローのところで仕事をさせていただいている。) 根来さんにはロッジで良く野球の話を伺ったが、そんな根来さんの野球の語りを本にした「みんな野球が好きだった」(2006年、集英社刊)にはイチローの素質をほめたくだりがあるし、ロッジで昔、「イチローに会いに行ったことはあるのですか?」と聞いた時、行っていないと言っていたのを思い出したので、いつか行った時、イチローのアシスタントをしているのが私の姪と分かればまた話の展開も面白いなー、と思いお伝えした。 その後、姪から根本さんがシアトルに来たとの話は聞いていないので行かずじまいとなったのだろうか。                                            根来さん、選手時代は国鉄スワローズのチームがいつも下位を低迷していて、よく遅くまで渋谷で飲んでいたそうな。朝になってそのまま試合に行ったこともあったとか、、、。 天才と言われていた巨人の長嶋が陰であんなに練習をしていたのを知っていたならもっと練習をすれば良かったと述懐していた。                                                   このところ少年野球の指導などが忙しいとの事で絵の会でお会いすることがなかったがまた再会したい人だった。                                                                    

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2009年12月15日 (火)

山手のザイムカフェ画廊で忘年会

スケッチ会のはるかさんが元町ZAIM CAFE ANNEXでの個展 をやっているという。 案内をいただいて地図を見たら石川町から郵便局のところをあがり フェリスに行く道の途中からそれて少し階段をあがったところにある。 「こんなところに画廊ってあったっけ?」 そこは最近出来たとのことで、赤い屋根のしゃれた洋館だが、 古い民家を改修した隠れ家的な雰囲気で、何箇所かにゆったりとしたソファーが 置かれている、まきストーブがあったりするところだった。 私たちのスケッチ会はスケッチ会の後、はるかさんのステキな作品に 囲まれてゆったりした忘年会を楽しみました。 はるかさんの個展は12月27日まで ZAIM CAFE ANNEX(石川町1-51、電話045-308-8481) にて12時から20時30分(月定休)の間開催しています。 絵に囲まれた空間で、ゆったりしたソファーでオールデイズを聞きながら 食事を取り、ひと時を過ごすのって良いと思う。                         左 はるかさんと作品

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2009年11月25日 (水)

二科会神奈川支部の受賞者による作品展の開催せまる

 2009年の支部展および本展の二科会神奈川支部同人の受賞者による作品展が以下の通り開催されます。今年の9月から私は支部の事務局をおおせつかったのでこの諸事務をおこなっています。また、支部展で記念賞をいただいたので秋から新たに50号の作品作りに取り組んでいます。ここに来て作品もようやく間に合いそうでほっとしています。よかったらご高覧くださいますようご案内いたします。    11月30日(月)~12月6日(日) 11:00AM ~ 6:00PM 初日午後1時より、最終日午後4時まで    会場 画廊「楽」        根岸線関内駅南口下車徒歩3分       横浜市中区翁町1-3 小原ビル2階 電話045-681-7255

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2009年11月12日 (木)

心に残る北フランス、カン(caen)の街

 今年の春の旅で心に残る街、時々思い出すのは何気ない街のたたずまいだったりする。ここカンの街はモン・サンミッシェルに行く途中、列車の乗り換えの間に歩いた街。日曜日の午後で街は静か、運河がまた心にしみるように美しかった。      

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2009年11月 4日 (水)

公園の鹿のその後、再び現れたハクビシン

 このところめっきり寒くなりました。鹿たちも朝は日差しがある暖かいところに固まっているようです。先日、また動物園の職員が何人か鹿の檻に入っています。外に2トンのトラックが止まっていて、もう何頭か四角い檻に入れられて車に積まれていました。子供が生まれて数が少し多くなったので他の動物園に移すのでしょうか。先日の鹿の角きりのとき我が家の犬が鳴いたので、今度は「鹿に麻酔注射をしたので止まらないで行ってください。」と職員の方から鳴く前に注意されてしまった。  動物園にハクビシンがいますが、こちらは夜行性のためかいつ行っても寝ています。何のために飼われているのかわからないほどです。犬との散歩の時、寝ている姿を携帯の写真に撮ろうとした所、気配を感じてか起きてこちらを向きました。聞くところによるとこのハクビシンは市内で捕獲され、飼われているものだとか。ハクビシンも野生のものが増えているようです。  ところで、去年のブログに我が家の天井にハクビシンが入り込んだことを書きましたが、今度は近くのH宅の天井に入り込んだようです。猫などとは明らかに気配が違います。よく天井裏に入り込む隙間を見つけるものだと感心します。近所のNさんが畑の何箇所かに檻を仕掛けたがまだ捕まっていません。畑の野菜や果物を食べられてしまうのは困るのだが、動物園のハクビシンの檻には捕まえても入れてもらえないだろうし、私はつかまらないといいなーとの思いでいるのだが、、、。夜行性の狸などは電車の線路づたいに一日に何十キロも移動するようなのでハクビシンももうとっくに他に行ってしまっているかもしれない。 動物公園のハクビシン

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2009年10月 3日 (土)

夢見ヶ崎動物公園、鹿の角きりレポート

  ゴールデンレッドリバーと動物公園を散歩していると、鹿の檻の中に5~6 人の職員が入っている。檻の周りで見物している人だかりがあり、 何があったのだろうかと近くまで行った。 職員が鹿の体めがけて薬の銃を撃っている。 少しして、職員が角を捕まえ、皆で取り押さえようとしたが逃げられてしまった。 やがて麻酔銃を撃たれた鹿は死んだように倒れて動かなくなった。 我が家の犬が「ワン ワン ワン」と太く泣き声を発する。 なんとなく異様な気配を感じたからか、、。 「犬はもっと離れてー」と注意が飛ぶ。 死んだようにしていた鹿は職員が近づくとまたひとしきり逃げた。 しかし、最後は取り押さえられ角を切られた。 鹿の角きりをやっていたのだ。 鹿の角きりといえば奈良公園が有名だが、川崎の動物公園の牡鹿もこうして角を切られ 来年また生えてくるまで角がない状態となる。 写真は横たわる鹿(左) と取り押さえられたところ(右)                                      

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2009年9月28日 (月)

フェリス女学院の山手10号館の見学会

横浜、山手のフェリス女学院内にあるレーモンドが設計した建物を見学してきました。 1929年に建設された外国人用の共同住宅だったが、後にフェリス女学院の所有となったものである。レーモンドはチェコの建築家で帝国ホテルを設計したライトの弟子であった人。レーモンドの設計した建物で国の重要文化財に指定されている建物もある。 現在この建物は何年前に横浜市の歴史的建造物に指定されている。そして今年、横浜市の補助を受けて外壁の改修が行われ、見違えるような、まるで新築のように美しく生まれ変わった。 今見るとそれほど特色があるようには見えないが、当時は周囲にこのような建物はなく、大変モダンであったようだ。建物は当時石油会社で働く外国人のための4軒の共同住宅であった。2階に3室、1階に1室とリビングとダイニング、かなりゆったりしたつくりである。 1950年代にフェリスが購入後は大幅な改修はせず大学の研究室などに利用してきたので、内部は建設当時のままで残っている。それが貴重だとか、、。 綺麗になった北側の螺旋階段からは屋上に出られ、山手の岡と横浜港辺りの景色がすばらしかった。今後は時々は一般の人も対象に見学できるようにしたら良いと思うが今はどのように利用するか検討しているのだとの事。 見学の前に関東学院大学の関先生から、横浜の開港当時の地図をいろいろ見ながらの 説明があり、明治初期の山手の状況がわかり、こちらも興味深かった。 フェリス在職中に、私はこの改修の計画に係わっていて途中で退職したので、どのようになったか興味があり、この機会に見学できてよかった。見学会の企画をしてくださった皆様、ありがとうございました。 外壁が改装されたフェリス女学院10号館

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2009年9月18日 (金)

二科展の作品を完成した次の日、逝ってしまった笠松氏への追悼として

二科展の作品を制作し、運送業者に作品を渡した次の日の朝、 笠松氏は大量の出血により亡くなってしまった。62歳だった。 3年ぐらい前、癌が見つかったのは、偶然歯の治療のときで、早期発見を喜んでいた彼だったが、その時に完治する事がなく、転移が見つかった去年ころは相当きつい放射線の治療をしていて、一時は髪の毛がぬけて坊主になるほどであった。 明るい人だったので、他人に死の恐怖や苦しみを話すことがあったのだろうか。 最近も絵を教えたり、野球をしたり、宴会をしたりで最後まで楽しくやっていたようだ。 一緒に神奈川二科会の事務局をやっていたので、今年の春に、彼から事務局長としてまとめた資料を私に引き継いで欲しいと言われた。私は二科展が終わった後、彼のお宅に伺うつもりでいた。私も彼の完治を願っていたが、まさか彼がこんなに突然に死んでしまうとは思ってもみなかった。 今、神奈川二科会から依頼があり、私が事務局長を継ぐことになり、彼が持っていた資料は受け取ったが、彼がどのような伝言をしたかったのかわからずじまいとなった。 事務局長を引き受けてみると、彼はそれなりに大変だったのだなと思う。 この1、2年の彼の二科展の作品は明るい原色で縦長の大きな作品だったが、それは浄土か天国を思わせるような作品だった。 彼の心の中で求めていた世界なのか、心の反映か、病気前とはあきらかに違う心持だったことを感じ、複雑な気持ちにさせられる。 いずれにしても明るく存在感のあった人なので会にいなくなったことに寂しさを禁じざるを得ない。彼のご冥福をお祈りする。 彼の最近の作品については二科会ホームページ http://www.nika.or.jp/kaiga/gallery/galleryframe_k.html から115番の笠松氏のページをご覧ください。

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2009年9月16日 (水)

スペイン・バルセロナのサクラダファミリア寺院訪問記

 長年のあこがれ、スペインのサクラダファミリア寺院を訪れた事を記しておきたいと思う。サクラダファミリア寺院はバルセロナの市街にあり、ガウディが設計したユニークな形の塔を持つ寺院として有名だ。1882年に建設が始まり、すでに100年以上過ぎているがまだ完成していない。 床はコンクリートの下地のままだし、建設中の資材が多くのスペースを占領している。 そんななかの部分には美しいステンドグラスの窓が出来上がりつつある。 広い空間に見学できる部分が分けられていて、多くの見物客がいる。一角には礼拝の場所があり、椅子が並んでいた。  エレベーターでコーンのような塔に上がることができる。 エレベータに乗るまでに30分くらいかかるようだが、列の後ろに並んだ。 エレベータに近くなるとベンチに座りながら徐々に前に進んでいく。 少しづつ前に動いている間に後ろの若い黒人の男女2人と仲良くなった。 オクラホマから休暇をとってやって来たのだそうだ。 「バルセロナに何日か滞在するのだけど、また帰ったら仕事、いやだなー」女性のほうが言っていた。 バルセロナにピカソの美術館があるから行って見たらと勧めたのだけど 彼が行くと言うかどうかな、、と彼女。 塔の上では写真を撮っていただき、私もとって差し上げた。 コーンのような形をした塔は他とも繋がっていたりして、はるか眼下に バルセロナの街が広がっている。よい景色だった。 せまい螺旋階段を時々あるテラスから景色を見ながら下っていくうち2人とは自然に別れてしまった。もう2度と会うことがないだろう、つかの間、旅で会った人たちだ。 完成までにはまだまだ何十年もかかりそうだ。あと20か30年経って、私が見に行くことができたら、、、。どのくらい工事が進んでいることだろう。あるいは完成しているだろうか。 サクラダファミリア寺院には完成途上のどうなるのだろうと言う興味と、そのことを今行っているわくわく感がある。                     

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2009年9月 4日 (金)

六本木の新国立美術館で二科展が始まった

私の出品した作品で入選したのはヨーロッパ旅行から帰って描いた作品だった。 春に描いた作品は神奈川支部展で賞をいただき、多くの方より褒めていただいたので この作品が展示されると思っていたのだが、新たに描いたほうが良かったのだろうか、 その作品が展示されている。今のところ、自分ではそうは思えず残念な思いでいる。 会場には力作が並んでいる。良い絵には何かメッセージがあると感じる。 名前を見なくても誰が描いたかわかる作品ができるようになったらすばらしい。 また私も頑張らねば、、、。 二科展が上野から六本木に移って3回目の展覧会だ。 六本木は昔通勤で毎日通っていたところだが、入社して間もない頃、こんなやり取りがあった。 通勤定期を初めて会社に請求する時、通勤費の請求の記入の仕方も良くわからなかったので、経由は当時、他の線との交差がないから良いと思い六本木とした。 そしたら「経由は帰りによっていくところ書くのではないですよ。」と担当課の課長からたしなめられたのだった。 また去年こんなことも、、、、  少し六本木のお店を開拓しようと一人で秋田の食材が売りの居酒屋に入ってみて、どんなものかわからなかったけど「いぶりがっこ」を注文した。わくわくして待っているとすぐに来た。何のことはない、タクワンの燻製だった。 今年も14日までの二科展、楽しんで、そして人や自分の作品をよく見て勉強して、もっと良い絵を描きたい。

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2009年8月26日 (水)

ゴーギャンの大作「我々はどこから来たのか、、、、」を日本で見ました。

今、東京の竹橋にある近代美術館でゴーギャン展が開催されている。 ボストン美術館所蔵の大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を見ることができる。この絵を見ることができる千載一遇のチャンスだ! ゴーギャンの作品の集大成、どんなタッチで描かれているのだろうか、 色彩の具合はどうだろうか、とても興味があって行ってきました。 ゴーギャンは原色を多用し、それでいてまとまっている、色彩感覚に優れている。 タヒチに行ってその色彩がさらに独特のものになっていったが、作品自体は始めから一貫したタッチ、色彩があることを感じた。そして今回日本に来た「我々はどこから来て、、、」も同じように丹精でよくまとまっていた。 黄色と深い青、緑ぼ対比、ピンク、赤が効果的に使われ、絵ににまとまりがあってとても良かった。彼の絵にはタヒチに行ったことによりテーマの独自性が出たが、もともと優れた色彩感覚とそれを表現したい強い意思あったから画家を志したのだろうと感じた。 ゴーギャンは勤めていた仕事がなくなり、30歳を過ぎてから画家になることを志した。家族とも離れ、一人タヒチに渡った人だ。 しかし、タヒチで描いた自信作はパリで思うように受け入れてもらえず、2回目にいったタヒチでは前に迎え入れてくれた人は去り、気持ちの支えだった娘に先立たれた事を知り、失意の中、死を覚悟し、今までの集大成としてこの作品を描いた。 そして、作品が完成した後、彼は砒素を呑み自殺を図っている。 亡くなったのはそれから何年かして、タヒチからはるか離れた島で、彼が54歳の時であった。

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2009年8月15日 (土)

水の都、ベニスならではのユニークな乗り物

 暑中お見舞い申し上げます ブログを見ていただいてありがとうございます。 早いもので8月半となりました。私にとっては毎年二科展の作品作りの 追い込みの時期です。お盆休暇でのんびり過ごされている方も多いことでしょうね!  前の日記に倒れて意識のなかった森さんのことを書きましたが。先日、お見舞いに行ったところ、集中治療室から一般病棟に移り、ベットで目を開けていました。 返事はできないけれどこちらが言っている事はどうやらわかる様でした。 帰りに手を握ったところ、弱くですが握り返してくれました。 快方に向かってくれることを祈っています。  今回は水辺の涼しげな写真をご覧ください。 ヨーロッパの水辺といえばなんと言ってもベニス、ベネチアングラスで有名なムラノ島に行った時、おりしもボートの競争をやっていました。 大きな運河には後から後からいろいろな船がやってきて、いったいどのくらいの人が参加しているのか、かいもくわからないほどでしたが、レースというより楽しいボート遊びをしているようでした。   なお、黄色のフロートの上に自転車を載せた乗り物はゆっくり進んでいましたが、レースとは別にサンマルコ広場付近の運河で見た光景です。                                       

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2009年7月31日 (金)

日刊スポーツ新聞社にいた森さんが倒れた。回復を祈ってー。

 今心配なことは日刊スポーツ新聞社にいた森さんが銀座のトイレで倒れ意識が戻らないこと。持病があるとは聞いていなかった。6月に倒れいまだに集中治療室にいるとのこと。回復するよう祈るばかりである。こういう時意識が戻り前と同じように生活ができるようになるのだろうか。  私が大学を卒業して入社したのは築地にある日刊スポーツ新聞社の広告局だった。 良い会社だったが、ずっと会社員としてやっていくことに違和感があり1年と4ヶ月でやめてしまった。 編集局、広告局、販売局、企画局、総務部と職種が違い、勤務時間も違うので皆で顔を会わす事もあまりないような職場だった。それが、そろそろ定年を迎えるので皆で集まり退職後も交流しようと言う話しがまとまり、一番早く退職してしまった私にまで連絡があった。 もう遠い過去になってしまっていたかっての仲間と30年ぶりの再会をはたした。それ以来、年に1~2回の交流が続いている。まとめてくれているのは今回倒れた森さんだ。 交流が始まったときは男ばかり12人、皆存命だったが、この2~3年の間によく一緒に飲みに行っていた広告局の山口さん、それに編集局の山口さんが病気で逝ってしまった。  学校の先生になった人、イベント会社を経営している人、毎日のように映画を見ている人、学校の運動部のコーチをしている人、いまだに元の会社や関連会社にいる人、、。 元相撲記者だった工藤さんは2年前「力士はなぜ四股を踏むのか?」を日東書院から出版した。仕事柄かユニークな人も多い、これからも交流していきたい人たちである。 前回会ったとき、森さんは「今度個展に行くから。」と言ってくださった。 眉毛が長く、たれ目でいかにも人のよさそうな森さん、気配りの森さん。 森さんが回復して元のように生活ができるようになるよう祈っている。

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2009年7月24日 (金)

合気道一筋の人生、義父寺田精之が亡くなりました

   義父で合気道家の寺田精之が7月に亡くなった。87年の生涯だった。  義父の人生は合気道一筋、良い人生だったと思う。 晩年は招かれて毎年カナダやロシアなどに合気道の指導に行ったりもしていた。 謙虚な人であったのだろう、合気道の技法書を出版し、晩年は組織の最高顧問をしていたがそれを自慢したりすることもなかった。昨年、10段位を受けた時も家族に受けたらと言はれて受けたと聞いた。 企業経営者風ではないが生計面では警備会社を家族の協力を得ながら経営していた。合気道をしていることがいろいろな面で仕事に役立ったようだ。 家では歌謡曲を自己流のピアノで弾いたりした。 正義感が強い人で、時に厳しい態度をとることもあったようだが、温かい人であった。 毎年正月には弟子たちが寺田家に集まることが恒例となっていた。また、弟子たちから届いたたくさんの年賀状に時間をかけて一つ一つコメントを書いて投函することが正月の日課になっていた。  この一年、腎臓の機能が悪化し、透析のため逗子の介護施設にいた。 いつも義母、子供や孫たち、合気道の弟子たちなどが見舞いに行っていた。 だんだんと歩くことができなくなったけどリハビリをすればきっとまた歩ける ようになるだろうと、1ヶ月くらい前には周囲がリハビリを勧め、本人もその気でいた。 しかし、最近になり、体力が落ちてか、食事をあまり受け付けなくなっていった。 最後はこんなに早く逝ってしまうとは思ってもいないうち息を引き取ってしまった。 長崎の出身なので戦争や原爆で多くの友をなくした彼にとって自分が生きてこうしてやってこれたこと、合気道の多くの弟子たちが慕ってくれることををいつも感謝していたように思う。そのような生活の規範を持っていることに私は尊敬の念をもっていた。 しかし、いつか別れの時がやってくる。義父はもういないのだなーと喪失感を感じる。 多くの弟子や親戚、知人に送られ良い葬儀だった。 遺骨は鎌倉の成福寺に葬られる。合掌。

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2009年7月13日 (月)

旅の終わりはパリで、詩人ランボウの泊まったホテルに泊まる

  旅の最後はまたパリ、かって泊まったことがある、 詩人ランボウも泊まったクリューニーホテルにした。(4月19日のブログをご覧ください。) ホテルの内装は変わっていた。入口にあった食堂のスペースが受付になっていた。 螺旋階段には小さいエレベーターがついた。 部屋にはシャワーやテレビもあった。 流ししかなかった安ホテルが普通のホテルに変身していた。 当時ホテルの管理をしていた若夫婦はどうしたことだろう。 奥さんは美人で明るくて素敵な人だったが、、、。 ホテルの外壁にはランボウが泊まったホテルである旨のプレートが新たに付いていた。 また、ロビーにランボウの写真が飾られていた。 部屋はかって泊まったことがある下の階であったが 窓からは通りをはさんで同じようにソルボンヌ大学が見えた。 (写真は外壁のプレート) 変わらないパリも住まいや店の中身は少しづつ変わっていくようだ。 昔よく行ったセルフレストランはハンバーガーショップになっていた。 そこの2階の窓からはリュクサンブール庭園の緑が見えていたが それは同じところにある。懐かしいパリに戻ってきた。 最後の日はホテルからも近いリュクサンブール庭園に行くことに決めた。 若い頃、暇があると行っていた、なつかしい懐かしいところだ。 帰国する日の午前、よく晴れて広々とした庭園の新緑が美しかった。 公園のベンチに座り、今回の旅と昔の自分を思い感慨にふけることができた。 友人の死やアクシデントにもあったりしたが、いろいろなところに行けて良かった。サクラダファミリア寺院やモン・サンミシェル、セザンヌの住んだ街・エクサンプロバンス、モネの睡蓮の庭・ジベルニー、スペインのコルドバやミハスなどなど、また思い出や描いてきた絵を時々ブログに載せたいと思っています。  旅の終わりに、昔パリに行けて良かった。そしてまたパリに来れて良かった、きっといつかパリに来ようと思った。

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2009年7月12日 (日)

パンテオン・天窓から神々しい光が、、ローマの2000年前の建物

ローマにある2000年の歴史ある建物、半球形のドームの上はるか43メートルの天井には9メートルの円形の天窓があると言う。 どうして天窓があるのだろう。雨のときはどうするのだろう。 それとも雨のときは屋根が張り出すのだろうか。かっては屋根があったのだろうか。 パンテオンの天井の穴・天窓には行く前からこんな疑問を持っていた。 ネットで調べてもでていないし、人に聞くほどのことでもないが、、、。 ドームに入り天井を見上げるとはるか上に円形の穴があり、そこから日差しが入ってくる。横には窓がないようだから、天井からと入口からのわずかな光がすべてだ。 日が天空に昇れば円形の光は直接石造りの壁や床に降り注ぐ。 広々とした球形の空間だが円形の穴の真下の石の床には雨を受けるような 設備も見当たらない。 長年の疑問を中にいたスタッフの男の人に聞いてみた。 「雨のときはどうなるのですか?」 「雨は上から落ちてくるけど止んだら拭けばいいのですよ。 たとえ横殴りの雨でも中では上から落ちてくるだけです。」 スタッフの方は私の疑問を理解して当然のように明確に答えてくれた。 2000年もの間、雨のあと拭き取っていたのだろうか。 日本のように雨が多くないからそれほど問題にならないのかもしれない。 晴れた日、ドーム内に降り注ぐ太陽の光はきっと神々しいことだろう。 夕焼けの真っ赤な空の光でドームはやわらかい光に包まれるのだろうか。 夜、ここから月や星を眺めたらまたすばらしいのではないか、、、。 パンテオンは建設当時は諸神を祭ったところだった。 当時の人々も天井から入ってくる光に神聖なものを感じたことだろう。現在はキリスト教の寺院として使われているが、いまだにすばらしさを感じられる建物だ。

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大変なドタバタの末着いたポンペイの遺跡

この日は朝から何でこうなるのだろうと思う事の連続だった。 始まりは目的地と反対のバスに乗っていたが、運転手が「どこへ行くのか?」と聞いてくれ バスが違うことに気づき、あわてて乗り換え事なきを得た。 次は乗ったバスが駅までいくと思っていたが、駅にいったん近づき、それから駅から 離れて行って、乗客も皆降りてしまったので「このバスは駅に行かないのですか?」と聞くと「このバスはバスステーションに行く」とのこと。 もう列車の時間があまりない。あわてて駅までバックを引いて走った。 ようやくサレルノの駅に着いた。 ホームで乗る列車を確認したら「隣のホームだ。」と言うので あわてて重い荷物を持ち、地下道から隣のホームに行くと、「ここではない。」と言う。 またもとのホームに戻り、ポンペイに停車する列車が入ってきてようやく乗車できた。 ドタバタはまだ終わらない、ポンペイの駅で地図を見ながら遺跡の見学の時、 荷物をどうしようか考え、少し不安げにうろうろしていたところ、 鷲鼻で一癖ありそうな老人が言葉巧みに話しかけてきた。 「入口は2キロ先だよ、そこではバックも預かってくれるよ。」と言うので 近くには別の入口があるはずだが、まー良いか、タクシーに乗ろうと思って乗ったら メーターが付いていない、タクシーではないのだ。 いくら請求するつもりだろうか、ちゃんと連れて行ってくれるだろうか、 少し不安になったりした。 でも、やっとのことポンペイの遺跡の入口に着いた、10ユーロは高いと思ったが言えなかった。 少しして、遺跡の入口で切符を買おうとしている時、ザックをさっきの車の中に 忘れた事に気づいた。鷲鼻の男に気をとられ、荷物に気がいっていなかったのだ。 ザックには旅の必需品が入っている。無くなったらどうしようー。 あわてて近くに止まっていたタクシーをひろい追いかけたが、少し走ったところで さっきの車が戻ってきた。 「ポンペイの駅までいって戻ってきたのだから10ユーロよこせ。」またお金をととられた。 ―― まったく何でこうなったのだろうと言うような半日だった。 ポンペイの遺跡を歩いたが、道の硬い敷石に車輪の轍の跡が残り、当時馬車が道を走り、繁栄を謳歌していた様子が感じ取れた。 火山灰に埋まる直前までの街の様子がわかり、すごいと感じた。 2000年前、すでに今とあまり変わらない文化を持っていたのだ。

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2009年7月 9日 (木)

北フランスへの旅―― 美しい港オンフルール

絵が好きで風景が好きな人はきっと憧れているだろう。 船のある入り江、尖塔のある建物、多くの絵描きを魅了して止まないオンフルール、今回是非行きたいところだった。 フランス・北の港ル・アーヴルからバスでオンフルールへ、、 バスの時間はわからなかったが、うまく接続時間の良いバスが合って これでオンフルールには昼過ぎには着くと一安心、 バス停のベンチに座りバスを待っていると隣に座った 黒人の太ったおばさんがフランス語で話しかけてきた。 フランス語は少ししかわからないが、どこから来たのか、どこへ行くのとか、そんな事を聞かれた。 私は一人で旅をしているのだと言うとー 「いいや、それは違う、神様と一緒だよ。」と天を指して言う。 良い事を言う。 日本では四国遍路の旅の時、空海(弘法大師)が一緒に歩いて くれると言うことで「同行二人」と言う言葉がある。 同じような考え方があるのだろうか?と思った。 オンフルールの港は三方を建物に囲まれた船だまりだ。 係留されたヨットがたくさんある。 とがった尖塔のある建物や外壁が黒い建物に統一感があり美しい。 太陽や雲や風の具合で水面が絶えず変化し、美しいたたずまいを作っていた。 入り江を囲んでレストランやカフェがたくさんあるので 私は場所を変えて入り、景色を楽しみ、スケッチをした。 そしてまた、朝早く散歩をし、スケッチをした。 後ろから日本語でおはようございますと 声をかけてくれた2人の日本人がいた。 「どこに泊まったのですか?」と聞くと「船にー」と思わぬ答えが返ってきた。 セーヌ川をクルーズしているツアーなのだそうだ。 「良いですね」というと「良いですよー」と本当に船旅を満喫している様だった。 これもいいなーとあこがれた。オンフルールは実に素敵なところだった。      

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2009年7月 4日 (土)

南スペインーダリのアトリエへの旅

ダリのアトリエは南スペイン、フランスとの国境近くの街にある。 奥さんのガラと過ごしたところ、ダリが描いた絵にある 入り江の風景を見てみたい。しかし、簡単には行けそうもない、でも行くことにした。 カダケスへ、イタリアのミラノからバルセロナ行きの夜行列車に乗った。 列車は南フランスで夜が明けた。地中海から朝日が昇る。 だんだん明るくなって時々地中海に面した街が見える、どこかわからない。 国境と思われるところでしばらく停車した。スペインの線路の幅はフランスより広いので それにあわせているのだろう。 スペインに入って最初に停車したフューゲラスの駅で列車を降りた。 降りたのは地元の人らしき2人と私だけだった。 フューゲラスは落ち着いた地方都市という感じだった。 中心の広場ではすでに市場が開いていた。人々が買い物に集まり始めていた。 ダリのアトリエのあるカダケスまではそこからバスで約1時間、バスは木々の少ないなだらかな山を越えて白い家の街並み、入り江に面した小さな町、カダケスに到着した。 ダリのアトリエがあるポルト・リガトまではそこからまた歩いて約30分、 オリーブの木のだんだん畑の坂を下ったところにある白い家、それが目指すところだ。 付近は草原の小さな入り江、ダリが描いた風景を髣髴させるところだった。 ダリと奥さんのガラがが住んでいた家はダリの家として公開されている。 5軒続きの漁師の家を徐々に買い足して使っているとのことで 白い壁の家の中は入り組んだ部屋が迷路のように繋がっていた。 一番上の海が眺められる広い部屋は二人の寝室、少し下ったところに彼のアトリエ、大きな絵を描く所と室内画を描くセットのような部屋があり、絵の具がたくさん並んだ小さな部屋があった。ダリの好みで収集したものが置かれ、独特の印象であった。 ダリのアトリエをみた後、明るい太陽の下、海辺やオリーブ畑の横でスケッチをした。  スペインは夏季はサマータイムで9時を過ぎても明るい。 カダケスの浜辺は白い家並が西日を浴びて輝き始めていた、それが美しく眺められる 海辺のレストランでプペイン料理パヘリアとワインでの夕食、 長かった一日が終わろうとしていた。(写真左ー地中海の夜明け、中、右ーダリのアトリエで、下ーカダケスの街)            

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2009年7月 1日 (水)

アマルフィー・・・断崖に囲まれた海辺の街

 映画リプリーは名作「太陽がいっぱい」のリメイク版である。 映画のできはそれほどでもなかったと思うが イタリアのどこかの海岸で撮影されたのではないか。 そんな風景を見たくてイタリアのアマルフィーに行った。  イタリアは山が多い。気候も暖かく、草木も豊かに伸び日本に近い印象である。 昔から外敵にに襲われることが多かったのか古い町は山の上に広がっている。平野に広がった港、ナポリは何度も敵に襲われその度に征服者に従属したため、ナポリ人の性格が独特なものになった。ーと言われれている。 こんな歴史が街の形も作っていった。 アマルフィーは後ろから敵に襲われないような断崖に囲まれ、少しの空き地に広がった街である。家々は白く連なっていて、細い路地が迷路のように繋がっている。かっては海上交易で栄えた。ナポリから南、サレルノからアマルフィーまでの断崖にはこうした家々が点在して魅力的な風景を作っている。 私はナポリから電車でサレルノに行き、バスに乗り換えてアマルフィーに行った。 バスの車窓からは青い海と崖にへばりついた様な建物、ところどころに見え隠れする小さな入り江が見られて実に美しい。バスが到着した広場にあるカフェで遅い昼食をとり、海と街の景色が見られるホテルに泊った。部屋のテラスでビールを飲みながら海や街の景色を眺め、スケッチもした。 アマルフィーに滞在中、観光船で近くのポジターノの街に行った。高台まで歩いてあがってみた。それからアマルフィーに戻り、バスに乗って断崖の上に築かれた街、ラッベルロにいった。透明な青い海、階段状に広がる家、海に迫るように聳える断崖、どこからの眺めもすばらしかった。 まもなく映画「アマルフィー」が上映さえる。 きっとイタリアの美しい景色がふんだんに写っていることだろう。        

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2009年6月24日 (水)

トレド ―知らずに聖体祭の日に行ってしまった―

 マドリードから夜行列車でパリに向かう日、昼間にトレドに行って戻って来ることにした。 トレドはかってのスペインの都があったところ、タホ川の流れが蛇行した深い谷に囲まれ、 グレコの絵に描かれた風景が今も残る街である。 トレドは前に行ったことがあり、その時は向こうで知り合った日本人たちと連れ立って 列車で行って町をゆっくり散策して、画家グレコの家を見たりしたのでまた、そんな散策をするつもりであった。 ところが、朝早く駅に行ったら列車の予約が必要という。 そして、午前の便はすべて満席で結局昼過ぎの便しか取れなかった。 スペインの高速鉄道は荷物検査があるし、飛行機の様である。 長距離では飛行機と同じような食事がでる。 しかし、トレドのように支線ではマドリードから30分くらいの所なので 荷物検査など大げさな感じであった。帰りにも検査があり、あきれてしまったが、それだけしないと安全が保てないのかも知れない。 まるで真夏のような日差しのなか、駅からの道を川に沿って曲がって行くと画家エル・グレコが描いた時と変わらぬようなトレドの街が見えてきた。 タホ川の流れを見ながら川にかかる橋を渡り坂を上りながらトレドの街に入っていった。 中心の広場に行くと窓には人があふれ、道も人が通れないくらいであった。 何が始まるのだろう? なんだかわからないままお祭りの中に入ってしまった。 カテドラルの周りは通りが天蓋のように作られ教会の壁に古いタペストリーが飾られ ている。聖職者の行進や警察隊の行進に町の人が熱狂していた。聖職者が教会に入ると花火があがった。何かの宗教行事であることがわかる。家にかえって調べたところどうやらトレドでの最大の行事、聖体祭のようであった。 この日はプラド美術館にも行く予定だったので、午前にプラド美術館に行った。 ゴヤの絵が良かったし、トレドに滞在した時間は短かったがお祭りにめぐり合えて満足できた一日だった。 そして、泊まっていたホテルで荷物を受け取り、まだ明るいかったが7時のパリ行きの夜行列車に乗ったのであった。

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2009年6月23日 (火)

マルセイユ ―海軍であった伯父が航海した港―

かっては日本からフランスに行く船はスエズ運河から地中海に入りマルセイユに着く、 そこから陸路パリなどに向かった。 マルセイユは地中海に面した多きな港、入り江の港があり、丘の上に教会がある。 港の周りは街の中心に近く、いつも賑わっている。 私が小学生の頃、祖父と2人で居間に寝ていたが、部屋には 軍艦が航行している絵があった。船はマルセイユまで行ったのであろう 下に寄港した港の地図が描かれていた。 海軍にいた伯父が航海した記念の絵だったのであろうか。 もし、伯父が戦死していなかったならば、、、。 戦後に母が家を継ぐことはなかったであろうから、私は今の家にはいなかった。 きっと私の人生は大きく変わっていたことだろう、、、。 ・・・それはとも角、マルセイユは小さい頃いつも見ていた絵の中にあり、 遠いところ、いつか行ってみたいところであった。 私はセザンヌの故郷エクサンプロバンスを訪ねたあと、バスでマルセイユに入り、 港に面したホテルに部屋を取った。 その部屋からは港が一望でき、明るい地中海の日差しがいっぱいに入ってきた。 港にはヨットがたくさん係留され、時々沖合いにあるイフ島に行く 観光船が出入りしていた。 対岸の岡の上にある教会が良く見え、絶景であった。 きっと、伯父も昔このような景色を眺めたのであろうと思った。  マルセイユ港 (ホテルの部屋より)

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2009年6月21日 (日)

久しぶりのパリ ―知人の死、悲しかったパリー

  6月18日まで25日の間フランス、イタリア、スペインを一人旅してきました。 今回の旅では私が所属している二科会の会員である織田ヒロヒコ氏に会おうと思い、 連絡先を聞いて旅立った。彼はこのところパリに滞在していると聞いていた。良い出会いがあることを願って楽しみにしていたのであった。 久しぶりのパリ、空港からのバスをシャンゼリゼで降りると 早速彼の携帯に電話にした。 ところが、奥さんが電話に出て何か言いにくそうなのである。 彼が会うことができないのか、病気で会えないのだろうか戸惑った。 一瞬間があってから、彼が先週突然心臓発作で亡くなったことが告げられた。 ほんの4日ほど前であった。私はショックを受けた。 まだ50歳台半ば、絵も売れ始めてこれからという時である。 彼は優しでい人だった。かって池袋東武デパートで開催されていた個展を 家族で見に行ったとき、当時、幼かった娘をあっという間に水彩で描いてくださった。 今もその絵は我が家の玄関にかかっている。 なによりも彼のお父さん(画家の織田広喜氏)の気持ちがいかばかりかと思った。 私の旅はこれから始まるのにこれからどうしよう。 気力も失せたように、途方にくれてしまった。 会えていれば今回の旅はもっと違った展開となったであろうに、、、。 翌日、パリは雨が降ったり止んだりの一日だった。 時々雨脚の強くなる様子をサンマルタン運河近くのカフェから しばらく何もすることなく眺めていた。 しかし、徐々に元気も取り戻し、旅を続ける気になってきたのだった。

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2009年5月20日 (水)

バルセロナに行き、ガウデイのサクラダファミリア寺院を見たい。ヨーロッパへ行ってきます。

ヨーロッパへ行ってきます。 5月25日から6月18日までの予定で列車の一人旅、スケッチ旅行に行ってきます。 行き帰りに訪れる久しぶりのパリ、フランスの南のプロバンス地方や北のモンサンミッシェル、イタリアのベニス、ナポリやアマルフィー海岸、スペインのアンダルシア地方などへ行こうと思っています。 泊まるホテルは着いてから決めることになるのですが、列車の旅は前にもしていますので 不安はありますが大丈夫と思います。 是非ともバルセロナに行き、ガウデイのサクラダファミリア寺院を見たい。 前に行った時は体調を崩し、ようやくのことでバルセロナに着いたのですが、駅前のホテルに入り二日間寝込んでしまいました。 その時は、前日に泊まろうと決めた地中海に面したタラゴナの街を歩いてホテルを探したのですが、どのホテルも満室と断られてしまいました。駅に泊まろうかとも思いましたが、バレンシア行きの夜行列車があったのでそれに乗りました。ところが、列車のなかで気持ちが悪くなって、どうしようもなくなり、停車した小さな駅に降りてしまいました、そして、朝までそこにいました。駅は無人でした。朝になって列車でバルセロナに向かったのでした。風邪を引いてしまったようでした。 バルセロナ三日目、少し良くなったので南フランスに向けて出発する事にしました。 その時は出発前にサクラダファミリアを見に行こうとは思わなかったがその後にテレビなどで紹介されるたびに行かなかったことの口惜しさがこみ上げてくる。今度こそ是非訪れたい所です。 そんなことで旅行中はブログをお休みします。 皆さん、ブログを見てくださりありがとうございました。 6月下旬には旅の思い出や描いて来た絵をお見せできると思います。 では、お元気でお過ごしください。

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2009年5月 8日 (金)

新潟・三俣のロッジのゴリさんが亡くなって早1年 ― ゴリさんの思い出

朝から雨で5月になったのに3月のように寒い日だった。三俣レイクサイドロッジのゴリさんが死んだとの電話が突然にあった。 佐藤という本名で呼ぶ人は誰もいない、通称ゴリさんは言葉が乱暴ではあるが心優しく、酒飲みでさりげない気配りもしてくれる人だった。 あれから1年が経ってしまった。 去年の正月にスキーに行った時は元気だったのに、癌をわずらっていたのを知らなかった。スケッチ会やスキーで年何回か行くロッジのオーナーだったゴリさん。私と同年の生まれ、これから長く付き合いたいたいと思っていた矢先の訃報であった。 ロッジに行くといつもだみ声で時にぶっきらぼうに話していたゴリさんは四季折々自然の中で楽しむこと教えてくれた、私には遊びの天才に思えた。 そのロッジは越後湯沢の奥、三俣にある、三俣は他よりも冬が早くやってくる。外は一面の銀世界、外に作ったごみ捨場には食べ残しを求めて暗くなると狸がやってくる。 雪の原にライトを向け、食堂や2階の部屋からその姿を見ることが出来る。 また、春から秋にかけて、ゴリさんはたくさんのハゼやあゆを釣る。 大漁のハゼはスパゲティーなどの自家製ソースの隠し味になるとの事だった。 山に食べ物が少ない秋に熊が畑に出没した時のビデオを見せてくれたり、捕獲された熊の胃を出してきてなめさせてくれた。その苦かったこと、、。 翡翠(ひすい)の採集のことや琥珀(こはく)の採集のことなどの話も伺った。 ロッジの横を流れる渓流に大きなホーローの五右衛門風呂を置き、春から秋には野外の入浴を楽しんだ。 村のはずれの墓地に大きな石の碑を建ててロッジに集まった人たちの名前を刻み我々が交流したことを残そうと話していたのは彼が死んだ前の年のスケッチ会の時の事だったか、そこに刻む名前がまずゴリさんになろうとは夢にも思わなかった。 本当に悲しくさびしい。 今年も5月にスケッチ会で三俣のレイクサイドロッジを訪れる。 ロッジに行くとゴリさんに会える。 ゴリさんがいなくなった寂しさはあるがスケッチ会ではロッジの方やスケッチ会の懐かしい面々にお会いできる。 ロッジは今残されたご家族がやっているが、この交流がいつまでも続くことがゴリさんの供養にもなると思う。 レイクサイドロッジのホームページ http://www.lakeside-gori.com/ 今年の冬の三俣  田代スキー場と田代湖

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2009年4月29日 (水)

野毛大道芸、シャンソン歌手元次郎さん、そして「ヨコハマメリー」の映画

写真はメリーさん  大道芸といえば今はない「元次郎(がんじろう)」さんのことが思い出される。元次郎さんはお釜のシャンソン歌手であった。 野毛大道芸のときは大通りから一つ入った村田屋の前あたりでシャンソンを披露していた。その彼がいない。「今年は見かけないけどどうしたのですか」関係者に聞くと死んだとの事であった。もう何年も前の事になった。  元次郎さんは記録映画「ヨコハマメリー」のもうひとりの主役である。 映画のパンフレットに彼が書いた文章によると、若い頃、歌手になろうと上京してきたが思うように行かなかった。お金をとられたりもして生活ができなくなった。 いつのまにか男娼の道にはいって行く。 仲間たちと蒲田から毎日多摩川を渡って川崎に行き街角に立った。戦後の混乱した時代であった。 一方、メリーさんは良い家庭の生まれであったが戦後没落し、外国人相手の売春婦になる。そして世の中が安定した後も白いおしろいを塗り、白いドレスを着て昔と同じように 伊勢佐木町界隈を徘徊した。 一説によると外国に帰ってしまったフィアンセが帰って来るのを待ってそのような格好をしていたとか。横浜の街に受け入れられ、溶け込んでいたメリーさん。 私はその姿を一度見かけたことがある。  元次郎さんはその後シャンソンのお店「童安寺」を持ち自らが歌って聴かせた。 私はシャンソン歌手のAさんに連れられてそこに行ったことがある。 後年、元次郎さんとメリーさんは知り合い、元次郎さんは同じような境遇だったことから 何かとメリーさんを気遣うようになる。 しかし、メリーさんも70歳を過ぎ、いつも見守っていた人から故郷に帰るよう勧められ帰って行く。 そしてまた何年かして、元次郎さんはケアハウスで暮らすメリーさんを尋ねていく。 ケアハウスで元次郎さんが歌うのを見つめるメリーさんを映画のカメラが捕らえた。その顔はなんと上品なこと。娼婦と上品な素顔の落差が大きすぎる。すごくショックであった。 メリーさん、そして癌が進行している体で映画に出ていた元次郎さんも映画が完成した後、相次いで亡くなってしまった。 最近DVDでもう一度「ヨコハマメリー」の映画を見た。メリーさんのことを尋ねるインタビュー形式で彼女を追っていく。そのことによりうまく時代を切り取り人生までも映し出している、改めてよい映画と思った。  横浜で何十年も仕事をしてきた私にと...

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2009年4月28日 (火)

野毛大道芸の時に初めて売れた私の水彩画

今年も4月の晴れた日曜日、野毛の大道芸を見た。 野毛の大通りには何箇所にも大きな人垣ができ、その中で大道芸が披露されて大盛況であった。今年で第35回であった.。. しかし、始めの頃は車道には車が走っていて歩道で絵などの作品を並べたりビルの間の空き地で大道芸人のショーがあったりしたが、今のようなにぎやかさはなかった。 時々飲みに行く飲み屋のお兄さんが顔を覚えていて声をかけてくれたりした、地域のお祭り程度だった。 我々の絵の会にも主催者から参加の要請があり、参加することになった。そして、歩道に絵を並べた。 私も横浜の山手を描いた水彩を飾った。 額に入っているし、値段も安い。しかし、売れそうな気配はなかった。 午後になって私は家に引き上げてしまった。 そうしたら夕方、展示していた仲間から電話が入った。 「石井さんの絵、売れたよ」 「えっ、本当」 友達も喜んでくれているのがわかる。 私の絵買ってくれた人がいた。絵が売れた初めての経験だった。 山手の坂道と洋館を描いた水彩画だった。 今頃あの絵はどうなっているだろう。どこかの家に飾られているだろうか。 大道芸の人ごみの中にいると昔の事がよみがえってくる。

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2009年4月19日 (日)

偶然に詩人アルチュール・ランボウの泊まったホテルに宿泊

  私は若い頃、放浪の途中しばらくパリのカルチェラタンにある安ホテルにしばらく滞在した事があります。そのホテルはルボンヌ大学と通りをはさんであり、私がいた部屋は一番上の階で東の窓からは大学の演習室や研究室が臨めました。中庭に面した窓には煙突と窓と四角い空しか見えなかったが時折窓辺には鳩が餌を探しに来るのが慰みでした。  晩秋の夕方、私はベットの上で日本から持ってきたいくつかの文庫本の中から、詩人アルチュールランボウの書いた「ランボウの手紙」を読み始めました。文中にランボウがカルチェラタンのホテルに滞在したくだりがありました。 やはり窓辺に時々鳩が来ることが書かれている。昔も同じ光景だったのだろうと思い読んでいました。ところがもっと読み進むとそのホテルはなんと私が今いるホテルの名前ではないか。しかも書かれたのがちょうど百年前の日付であった。 ということはランボウが百年前同じ部屋にいたのかも知れない。 私は大詩人に導かれるように泊まったホテルで彼の作品を紐解いたのである。 この偶然には鳥肌が立ち、いても立ってもいられない感覚におそわれたのでありました。 ホテルの名前はクリューニーホテル、ソルボンヌ通りに今もきっと変わらずにあることと思います。 ーー 行って確かめてこよう、今は久しぶりに行く予定のパリに思いをはせています。  17歳のランボウ

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2009年4月14日 (火)

神奈川二科展で「記念賞」をいただきました

仕事を辞めて1年がたちました。神奈川二科展が始まりました。 (4月13日~19日、横浜市民ギャラリーにて) 今回100号の作品を一点出品しました。いままで、人から影響を受け、まとまりがつかず テーマを見つけるのに苦労していました。会員の先生から会友なのだから二科展で落選することはないのだし、大胆に描けと言われたりしました。 この1年。自宅にギャラリーを作って自分の作品を並べ、昔描いた絵とも向き合ってきました。どのような絵を描くのが自分らしいのか,独自性をどのように出したら良いのか。 構図と色とがあるべき位置に収まっていい絵にするにはどうしたらよいのか、、、こんなことを自問自答している毎日でした。 そして、昔の延長上に自分らしい絵を描くしかない、こんな気持ちで取り組んできた1年でした。    作品を描き始めたのは3月になって、下塗りもせず描iいたり 消したり、試行錯誤の毎日でした。審査の結果、会友の中から選ばれる記念賞をいただきました。 今までにないくらい先生や仲間からほめていただきました。自分のこれから描く方向も見えてきて1年間の良い成果が得られた事をとてもうれしく感じました。

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2009年2月21日 (土)

自宅ギャラリーに絵の仲間が来てくれました。

思えば9月に昔は部屋だったが部屋としては何十年と使っていなかった 物置同然の部屋に自分の絵を展示してみようと思ったのは9月頃だった。 木の部分にはサンダーをかけて綺麗にし、京壁は落として2回ペンキ塗りをした。 カーテンを替えたり、照明器具を付けたり、 実際に絵をかけるまで少しづつやったのでずいぶんの時間を要した。 年賀状にギャラリーのことをお知らせしたが、 その頃はどの絵を飾ろうか、どこに飾ろうか、額はどうしようか と思案中で、ほとんどの絵は床に置いた状態だった。 入口、階段や外回りも直さなければならないし、まだまだやらなければ ならないことがたくさんあった。飲み物た食べ物の調達もしなければならない。 来客がある日も階段の板を張ったりでやっとのオープンであった。 9畳の和室に40点の作品を展示して見ていただいた。 お出でいただいた三人の絵の仲間にはまず夢見が崎動物公園 に案内してから我が家に来ていただいた。 お酒を飲みながらしばし楽しいひと時を過ごすことができて まずはほっとした一日だった。 かって絵の先生をしていた方から絵のほうも何点かほめていただいた。 絵を見ていただく方あってのギャラリーであり創作活動でもある。 感謝!

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2009年1月23日 (金)

手作りの茶室(炉端)で新年会

手作りの茶室で新年会をした。 退職を前に横浜の絵の仲間が自宅の庭に自分で立てたもので さすが工業系高校の先生、できばえがすばらしい。 図面を何十枚も書いた上、廃材の障子などを自分で歩き集め 壁の塗り方はプロに教えを請うて自分で塗ったとのこと。 材料も柱に運動場で切った杉を皮をはぎ柱に整えて 使うなど凝っている。 4畳半の真ん中に半畳の囲炉裏が切ってある。 囲炉裏には手作りの自在鍵がある。 大きななべを掛け、高さを自由に調節できる 機能に感心した。 暖かい日差しが障子に注ぎ外の草木の陰が映る。 まさに男の城、夢を実践したところがすばらしく、またうらやましい。 自在鍵は使い道はないが我が家にも欲しいと思った。 魚介類や肉を焼きながらお酒を飲んでいろいろな話を した。久しぶりの至福のときであった。 Iさんありがとうございました。また集まりましょう。

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2009年1月 5日 (月)

熱気球に初めて乗船した!!

初冬の良く晴れた日、初めて気球に乗せてもらった。 その日記から、、、 まだ暗いうちに群馬県の渡良瀬遊水地に近い家をトラックで出発、 途中倉庫から気球や籠やガスボンベを積んで遊水地に向かった。 たけの高い茂みに覆われた遊水地の広場に着くと早速気球を下ろし 飛ぶ準備にかかる。気球に熱風を送っていくと少しづつ気球が上を向いていく 地面から気球が離れ急いで4人が乗り込みあっという間に大空に上がっていく。 地上にいる私は他の2人と飛んでいく気球を車で追う。 気球は家や木々の間を見え隠れし、遊水地を離れ南西の方向にゆっくり飛んでいく。 無線で交信し、しばらくして稲の刈り取られた田んぼに無事 着陸した。 今度はすぐに私たちが乗り込み離陸、気球の大きな影が田んぼに  出 来ているがそれが見る見る小さくなり、あっという間に地上から何百メートルと上がっていく。 高いところから見る地上はミニチュアのよう、遊水池が朝日に輝いている。 美しい景色がゆっくりと流れていく。籠の下は何もないが怖い感じはしない。 約一時間の空の散歩を満喫、田んぼと田んぼの間の細い道に着陸した。     大学時代に知り合いの探検部の人たちは当時ミシンで縫って気球を作っていたが、 彼らに手ほどきを受けた人と偶然知り合いになり、共通の友人が出来たことが きっかけとなり乗船が実現したのだった。  気球ってすばらしい。またいつか乗ってみたい。

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2009年1月 1日 (木)

個人常設ギャラリーオープンのご案内

新年おめでとうございます 昨年は私のブログを見ていただきありがとうございました。 少し、間が開きましたが今年は月1、2回程度た心に残ったことなど を書き込みたいと思っています。本年もよろしくお願いいたします。 さて、このたび 絵の展示室を自宅に設けました。 旧作から新作まで40点程度展示しています。 自宅は横須賀線新川崎駅より2キロ程度のところにあります。 桜の名所でもある夢見ヶ崎動物公園の南隣にありますので お近くにお越しの折には是非お寄りください。 見学のご希望がありましたら書き込みをお願いいたします。

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